ディスカバー・ニッケイ

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カナダの呼び寄せシステム(英語)

(英語) 「Yobiyose」とは、文字通り「呼び寄せる」という意味です。この制度によって、家政婦や店員、農夫、伐採人員などを日本から呼び寄せられるようになっていました。そのためには、日本の領事館に呼び寄せ申請をしなければなりませんでした。呼び寄せ資格は厳しくて、自立した農家、伐採業者、または製材所経営者でなくてはなりませんでした。ただ誰にでも呼び寄せる資格があるというものではありませんでしたね。もし無職だったり、製材所に雇われている身であれば、誰かを呼び寄せることは出来ません。呼び寄せ側が既に独立していることが条件でした。  


農業 農業 (farming) 移住 (immigration) アメリカ合衆国 呼び寄せ

日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

ロジャー・シモムラ

渡米後の祖母の差別体験(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

引き上げ者に対する世間の態度(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

トム・ユキ

野菜の栽培と出荷の共同会社を立ち上げた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

モニカ・タイシャ―

コロンビアに移住した祖父(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

バーバラ・カワカミ

ハワイへ再移住 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

写真花嫁と「仮夫婦」 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

ロイ・H・マツモト

広島県の学校にいた帰米のクラスメート達(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

条約商人としてアメリカへ入国した母(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

キミ・ワカバヤシ

移住初期のカナダでの生活 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

アルベルタのテンサイ農場(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)