ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

ミツオ・イトウ

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

アルベルタのテンサイ農場(英語)

(英語) 1941年にアルベルタに行きました。アルベルタの砂糖大根(テンサイ)農場で、砂糖大根の栽培の仕事をしていました。

I*: 農場の経営者は誰でしたか?

白人の人達が経営していました。冬になるとロッキー山脈の方に行って冬季だけ製材所で仕事をし、春にはまた砂糖大根農場に戻り、夏一杯働きました。そしてまた冬になると山に入って製材の仕事です。

I: 農場での仕事はどうでしたか?

それは重労働でしたね。決して楽な仕事ではなかったです。

I: 一日に何時間働いていたのですか?

日の出から日暮れまでです。

I: 休憩時間はありましたか?

ええ、でも昼食の時だけでした。あとはずっと働いていました。200エーカーに渡って大量の砂糖大根が栽培されていましたから。春には雑草取りをし、秋の収穫の時期になるまで世話をするんです。収穫の準備が済むと、機械で土ごと掘り起こし、大根の首の部分を切り落としてそれを一箇所にまとめるんです。

* “I”はインタビュワー(メアリー・イトウ)


農業 アルバータ州 カナダ 農業 (farming) 伐採 甜菜

日付: 2005年3月23日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: マリー・イトウ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

ミツオ(ミツ)・イトウ氏は二世の日系カナダ人男性。1924年8月20日カナダのブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれました。ミッションで生まれ育った彼は、家の農場を手伝いながら学校へ通っていましたが、製材工場や砂糖大根農場で働くのをきっかけに家を出ます。戦後は日本へ移住し、(日本へ駐屯していた)英国軍隊で通訳として働き、その後結婚しました。1950年代にトロントへ戻り、二人の息子を育てました。現在はトロントの日系カナダ人のコミュニティーに積極的に活動し、慈善事業にも従事しています。(2005年3月23日)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

笠原ハルオ

日本語とハワイ語によるハワイの耕地での伝統的な労働歌(ほれほれ節)

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

アリス・スミダ

テンサイ農場で学んだ農作業(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

ビル・ハシズメ

父による農業経営の成功(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

カナダの呼び寄せシステム(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

フランク・ソギ

5歳で働き始めて(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

マーガレット・オダ

ワイレア製糖工場をはじめた父の役割(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

西村 俊治

ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

農工学校を通じてノウハウを次世代へ

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

トシオ・イナハラ

大学進学を勧められて (英語)

血管外科医(1921年生)

ジミー・コウ・フクハラ

アイダホでのテンサイとじゃがいもの栽培(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

Fukuhara,Jimmy Ko

Sugar beet farming process

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)