ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/472/

4C-敵性外国人-に分類(英語)

(英語) 1942年1月、私は米国空軍に志願しました。当時の志願条件の1つに、大学への在籍経験1年以上を有する者、という項目がありました。当時、私はちょうど大学1年目を終えたところでした。それから筆記試験と身体検査の通過も条件でした。私は入隊する準備が整っていたので、空軍基地に赴きました。が、私のバックグランドが日系人ということで、入隊を拒否されました。私は弁護士を立て、入隊拒否に対して訴えを起こしました。その弁護士というのが、ポール・パターソンだったわけですが、彼と私は過去に仕事上の取引でオレゴンのヒルスボロで知り合っていたんです。後にオレゴン州知事となった人物でもあります。彼が代理人となり、私は裁判に訴えましたが、訴えは受け入れられませんでした。その後私は、戦争が終わるまで「4C」と分類されました。

I*: 「4C」はどういう意味ですか?

敵性外国人です。

*"I" はインタビュアー(アケミ・キクムラ・ヤノ)


差別 対人関係 人種差別 米国空軍

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

Sam Naito
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サム・ナイトウ

真珠湾攻撃で中断された大学生活(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

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Sam Naito
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サム・ナイトウ

第2次戦中の就職の困難さ(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

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Paul Terasaki
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ポール・テラサキ

戦後シカゴでの体験(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

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George Azumano
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ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

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Alfredo Kato
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アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

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Alfredo Kato
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アルフレド・カトウ

日本人に対するステレオタイプ: 昔と今(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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Masako Iino
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飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

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PJ Hirabayashi
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PJ・ヒラバヤシ

子供のころ体験した差別(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

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Jeanne Wakatsuki Houston
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ジーン・ワカツキ・ヒューストン

オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)

作家(1934年生)

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Jeanne Wakatsuki Houston
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ジーン・ワカツキ・ヒューストン

映画制作で行った小細工(英語)

作家(1934年生)

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Jeanne Wakatsuki Houston
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ジーン・ワカツキ・ヒューストン

終わることを知らない人種差別 (英語)

作家(1934年生)

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Mónica Kogiso
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モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

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