ディスカバー・ニッケイ

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フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)

(英語) I*: お名前、生年月日、出生地を教えて下さい。

フレドリック・ヨシヒデ・ササキです。1918年7月28日、広島の生まれです。

I: ご両親について少しお話しいただけますか?

私の両親についてですね。父は1907年に16歳でカナダに来ました。父の母は即に息子を何人か亡くしていたということもあって、父がカナダへ発つ時、とても悲嘆にくれていたそうです。父以外の息子達は皆30代で亡くなったそうです。父がこの話をする時はいつも目に涙を溜めて、とても悲しそうにしていました。

I: お父さんは何歳で移住して来たのですか?

17歳の時です。

I: どうして移住を?

いつの日か、日加貿易を発展させたいという夢があったのだそうです。

I: 兄弟で移住して来たのはお父さんだけだったのですか? ええ。父一人だけでした。

I: では、お母さんは?

母については、そうですね、どちらかというと…両親の家族は知り合い同士で、幼い頃からお互いの結婚は決まっていたそうです。母は若い頃はかなり運動神経が良かった、と言っていたのを覚えています。学校の陸上競技大会に参加しては、好成績を修めていたそうですよ。そして父は1917年に母と結婚する為に日本へ(一時)帰国しました。その間に私ができたのですが、祖母が「赤ちゃんを連れて行かないで。赤ちゃんが生まれるまでは、(カナダに)戻らないで」と言ったので、母だけ日本に留まり、1919年、私が9ヶ月の時に母は私を連れてカナダへ渡りました。

I: では、あなたの弟妹は皆カナダで生まれたのですね?

そうです。カナダで生まれました。

I: ご家族はどこに住居を定めたのですか?

バンクーバーです。父が来た1907年は、排日感情が強い時期で、父は船から降りた時、波止場に居た人たちから石をぶつけられたそうです。そのことを父ははっきりと覚えていましたね。その数ヵ月後には、ギャング達が日本人の住む地域を襲い、バンクーバーでは白人対日本人の闘争が起こったそうです。

I: それは何年の出来事ですか?

1907年から1908年です。当時は排日感情がとても強かったんですよ。後で知ったんですが、1907年には実に多くの移民が日本から(カナダへ)移住してきた年だったそうです。

I: そんな大変な時代に、お父さんは仕事に就くことはできたのですか?

いいえ。でも、父は幸運にもバンクーバーの消防局長宅で使用人として雇われることになったんです。家の中のちょっとした雑用をしながら、英語の勉強にも行かせてもらったそうです。それから父は、英国国教会派の司祭にもお世話になって、司祭は父にとても良くしてくれた上、英語も教えてくれたそうです。

* “I” はインタビュワー(テリー・ヤマダ)


カナダ 移住 (immigration) 移住 (migration) 人種差別

日付: 2004年9月24日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: テリ・ヤマダ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

フレッド・ヨシヒデ・ササキ氏は1918年7月28日に日本の広島県で生れました。生後9ヶ月の時、すでにブリティッシュコロンビア州バンクーバーにいた父へ合流するため母とともに渡加しました。公立の学校で教育を受け、1939年にブリティッシュコロンビア大学の商業・財政学部に入学しました。

第2次大戦が勃発し西海岸からの日本人・日系人の立ち退きが始まったため、彼はアルベルタ州カルガリーへ移り、通信教育にて学位を取得しました。1943年、ブリティッシュコロンビア州ソロカンに収容されていた家族を呼び寄せるため、オンタリオ州トロントへ移りさまざまな職に就きました。

その後、カナディアンタイヤと呼ばれるカナダの著名な小売り業者で約45年間働き、財政部の副社長を務めました。現在は、日系カナダ人コミュニティに積極的に携わり、日系コミュニティのための老人ホームを管理するもみじヘルス・ケア・ソサエティの創設にも貢献しました。すでに彼の妻は他界していますが、現在でもスポーツ、コミュニティ、家族行事などに積極的に参加しています。

Masako Iino
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仏教会に見る日系カナダ人のアイデンティティ

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