ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/402/

広島の原爆を目撃(英語)

(英語) あれは広島に原爆が投下されたすぐ後のことでした。私達が原爆についてまだ何も分かっていない時です。あれは最高に美しい・・・朝、最高に美しいオレンジっぽい、ピンクっぽい、赤・・・何と呼ぶのか分かりませんが、とにかく目の前にはとても綺麗な光景が広がっていたのです。あれは原子爆弾でビルが全部焼けていたからだとだけ聞きました。(きのこ)雲は見ませんでしたが、街の地平線が真っ赤になっていたのが見えました。後になって何が起きたかを聞き、胸が詰まる思い・・・私達は広島に親戚がいたわけではないので、衝撃の度合いは他の人ほどではなかったかもしれませんが、その恐ろしさといったら・・・私達は理解していなかったのです。


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日付: 2003年8月3・4日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

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