ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/346/

忠誠心の質問への返答(英語)

(英語)私の両親は私にあまり多くのことを言いませんでしたが、ただひとつだけ「市民権というものにはいったい何の意味があるの?あなたはアメリカ人だと主張して、市民権があることにあれだけ誇りを持っていたのに」と言っていました。確かに市民権はそこ(収容所)では全く持っている意味がありませんでした。私たちも一世と同じように収容所に入れられていて、発言権も何もなかったのですから。一世が「自分達を収容所に入れるような国に命を捧げ、ボランティアで米軍に入隊してアメリカのために戦おうなんて、一体誰がそんなことをするのか」と考えたのも当然です。一世がそう考えたことは、理にかなっています。だってそうでしょ、私たちは(一世も市民権のある二世も関係なしに)みんな同じ扱いだったのですから。


市民権 公民権 差別 投獄 監禁 対人関係 人種差別

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

タカヨ・フィッシャー

戦後の米国で人種的に自分が何者なのか混乱(英語)

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(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家