ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/302/

バンドエイドで悟ったこと(英語)

(英語)僕にはバンドエイドを貼るまで自分が日本人の背景を持っていることに気づかなかった友達がいるんですよ。その当時のコマーシャルでバンドエイドは肌の色だって宣伝していたんです。バンドエイドを貼っても貼っているように見えないというのが売りだったんです。僕の友達はバンドエイドを貼った時、自分の肌の色がバンドエイドと違うって思ったそうです。それが自分は日系アメリカ人なんだと気づいた最初の時だそうですよ。それに、僕たちの家はぶどう畑の真ん中にあって、子どもの時は基本的に家族や親戚としか接触がなかったから、自分が学校に通ってアメリカ文化に溶け込むまでは、自分が違う(日系アメリカ人である)ってことに気づきませんでしたね。


Finding Home(映画) アイデンティティ

日付: 2003年11月28日

場所: 日本、佐賀県

インタビュアー: アート・ノムラ

提供: アート・ノムラ、『ファインディング・ホーム』

語り手のプロフィール

61歳の日系アメリカ人四世(母系から数えた場合)、ボブ・キヨシ・オカサキ氏は1942年の第二次世界大戦中にカリフォルニア州のフレンチキャンプで生まれ、まもなくしてオカサキ一家はアーカンソー州ローワー強制収容所に送られました。戦後、一家はカリフォルニア州ストックトン、後にロディに引っ越して、ブドウ園を経営しました。

ボブはサンノゼ州立大学に進学し、まもなくして陶芸に専念するようになりました。海外留学プログラムを通して、ボブは芸術的な陶器で知られている日本へ留学し、人間国宝の陶芸家の元へ弟子入りしました。

インタビューの中で、彼は自分のアイデンティティについて、日本を訪れた当初はアメリカ人としての意識が強かったけれど今ではアメリカへ帰国してもアメリカ人ではないように感じると述べています。彼は1975年に日本人女性と結婚し、1985年に最初の子供を授かりました。日本に到着したばかりの頃について、彼の日本語の理解度が低かったため、まるで彼がそこに存在しないかのように振舞う人もいたと当時のことを語っています。また、日系アメリカ人ゆえに、初めは奥さんの家族とも多少ぎくしゃくしたところもあったようですが、今では自分の家族と同じく心休まる存在になっているそうです。(2003年11月28日)

ピーター・ミズキ

米国国籍を持つ日本人の妻 (英語)

在日三世・剣道家

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

決してなることができない日本人(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

日系アメリカ人に対するステレオタイプ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー