ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1685/

収容所の日系人を支え、就職の手助けをしてくれたクエーカー教徒への感謝(英語)

(英語)クエーカー教徒は素晴らしい人たちでした。ボランティアで収容所に来て大学に出願するのを助けてくれた最初の人たちだったと思います。私たちは出願方法など全く分かりませんでしたから。さまざまな短大や大学、収容所外の仕事の応募書類を持ってきてくれました。たくさんの、たくさんの日系人が彼らの善意に助けられ、収容所から解放されました。収容所から出る方法は3通りで、大学に入学するか、就職するか、軍隊に志願するかだったと思います。

私は短大にも大学にも合格しなかったので、クエーカーのボブ・オブライアンという人だったと思いますが、彼に「シンシナティ大学の学食か食堂で、従業員を募集しているらしい。その仕事に応募してみる?」と聞かれて、「うん、そうする」と答えました。それが一番大学に近い選択肢でした。食堂の従業員の職を得て、私は兄と一緒にシンシナティに向かいました。


ブリティッシュコロンビア州 バーナビー カナダ 日本文化センター博物館 クエーカー教 キリスト友会 ボランティア 活動 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2018年8月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: シャーロン・ヤマト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1923年、母親の里帰り中に日本で生まれる。ワシントン州シアトルで育ち、第二次世界大戦開戦後、アイダホ州のミニドカ強制収容所に収容される。クエーカー教徒のボランティアに助けられ、オハイオ州シンシナティの仕事を得て収容所を出る。シンシナティ大学を経てニューヨーク大学で文学士を取得後、シカゴ大学で文学修士号を取得する。

移民国籍法が通過した後米国に帰化し、1955年に米国籍を取得した。

幼少期から詩を書き続け、1976年に『ミニドカ』、『収容所ノート』、『その他の詩』の作品を収録した最初の本を出版した。39歳の時に健康上の不安を乗り越えて教師として働き始め、その後多くの本を出版した。

カリフォルニア州アーバインで人権擁護グループの設立を支援し、その結果1980年代にアムネスティ・インターナショナル理事会メンバーに選出された。その後多くの人権擁護活動に積極的に参加し、特に女性の人権擁護活動で知られるようになった。(2018年8月)

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

家族がハートマウンテンに移送される前に生まれた妹(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ハートマウンテンで“ジャップ”と呼ばれることの意味を知る(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで楽しんだ運動会やスポーツ(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの子供向けアクティビティ

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

キャンプに家を持つ

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

クリスタルシティの地図で家族のバラックを見つける

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)