ディスカバー・ニッケイ

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収容所の日系人を支え、就職の手助けをしてくれたクエーカー教徒への感謝(英語)

(英語)クエーカー教徒は素晴らしい人たちでした。ボランティアで収容所に来て大学に出願するのを助けてくれた最初の人たちだったと思います。私たちは出願方法など全く分かりませんでしたから。さまざまな短大や大学、収容所外の仕事の応募書類を持ってきてくれました。たくさんの、たくさんの日系人が彼らの善意に助けられ、収容所から解放されました。収容所から出る方法は3通りで、大学に入学するか、就職するか、軍隊に志願するかだったと思います。

私は短大にも大学にも合格しなかったので、クエーカーのボブ・オブライアンという人だったと思いますが、彼に「シンシナティ大学の学食か食堂で、従業員を募集しているらしい。その仕事に応募してみる?」と聞かれて、「うん、そうする」と答えました。それが一番大学に近い選択肢でした。食堂の従業員の職を得て、私は兄と一緒にシンシナティに向かいました。


ブリティッシュコロンビア州 バーナビー カナダ 日本文化センター博物館 クエーカー教 キリスト友会 ボランティア 活動 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2018年8月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: シャーロン・ヤマト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1923年、母親の里帰り中に日本で生まれる。ワシントン州シアトルで育ち、第二次世界大戦開戦後、アイダホ州のミニドカ強制収容所に収容される。クエーカー教徒のボランティアに助けられ、オハイオ州シンシナティの仕事を得て収容所を出る。シンシナティ大学を経てニューヨーク大学で文学士を取得後、シカゴ大学で文学修士号を取得する。

移民国籍法が通過した後米国に帰化し、1955年に米国籍を取得した。

幼少期から詩を書き続け、1976年に『ミニドカ』、『収容所ノート』、『その他の詩』の作品を収録した最初の本を出版した。39歳の時に健康上の不安を乗り越えて教師として働き始め、その後多くの本を出版した。

カリフォルニア州アーバインで人権擁護グループの設立を支援し、その結果1980年代にアムネスティ・インターナショナル理事会メンバーに選出された。その後多くの人権擁護活動に積極的に参加し、特に女性の人権擁護活動で知られるようになった。(2018年8月)

サム・ナイトウ

第2次戦中の就職の困難さ(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

ヨンオク・キム

幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ヨンオク・キム

ジェロームからの異動を拒む(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ウィリアム・ホウリ

収容所の屋外便所とシャワー(英語)

政治活動家(1927-2010)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

「与えられている仕事に真摯に取り組むこと」(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

キャサリン・ドイ・トッド

収容所体験の影響 (英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

ハルノリ・オダ

渡米初期のアメリカの印象(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

タミオ・ワカヤマ

戦後の国外追放の企て (英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

フレッド・Y・ホシヤマ

ホノルルでの就職(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーでの仕事(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

ジミー・コウ・フクハラ

アイダホでのテンサイとじゃがいもの栽培(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

トム・ユキ

第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ケイ・セキマチ

収容所で盛んだった芸術文化(英語)

アーティスト(1926年生)

ケイ・セキマチ

トパーズからシンシナティへ(英語)

アーティスト(1926年生)