ディスカバー・ニッケイ

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娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

それで一旦(日本へ)帰ろうということで(日本へ)帰りましたね。それで帰ったけれども、やっぱり日本は良くないし、上の子なんかは小学3年生で来て4年生に行って、あっち、日本に戻りましたけど、横浜の本牧の小学校へ。そしたらね、おでんが出るって言うんだね。昼食で。そうするとそれがどうしても嫌なんだって。下の子なんかもうあんまり馴染みが良くないので、じゃアメリカに行こう、戻ろうということで、今度は私が1978年の3月にスーツケースとかばんを一つ持って、来て、LAXからタクシーでロサンゼルスのダウンタウンのホテルに入って、レンタカーを借りてドライブをして歩いていて見つけたのが今のモンロビアに住んでいる家だったんですね。そこでもうこれでいいだろうということで、荷物を送っていいよと、荷物とか猫とかなんかを一緒に。猫2匹がね、ミズーリで生まれたのが横浜へ行って10ヶ月いて、またこっちにね、カリフォルニアに戻ってきて、したような猫だったんですけど。そこからは今のところにずーっと居るんですね。


カリフォルニア州 家族 ロサンゼルス 移住 (migration) アメリカ合衆国

日付: 2016年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村陽子、渡辺美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1936年8月、宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)で半農半漁をする両親のもとに生まれる。高校卒業後すぐに横浜へ移り住み、配管工になり、主に発電所の建設などにの仕事に携わった。1961年、25歳の時に兄とともに発電所の請負会社「河北産業」を立ち上げ成功するが、兄とのいさかいから会社を辞め独立。1975年、横浜の市長選に出馬するが落選、その後アメリカへ移住を決める。グリーンカードを取得し、ミズーリ州のカンサスシティへ娘二人と妻を連れ家族で移住するが、1年半後に日本へ帰国した。しかし、娘が日本の生活になじめず、その10か月後、再び家族でアメリカへ戻ることを決意。1978年、ロサンゼルスへ家族とともに再び渡米。以来、ロサンゼルス郡モンロビア市に住み、隣接するボールドウィンパークで溶接業(AAM Welding Company)を営んでいる。(2017年10月)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

トシオ・イナハラ

家族構成(英語)

血管外科医(1921年生)

トシオ・イナハラ

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)