ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1488/

米国で働く前に日本で勉強したこと(英語)

(英語)大阪や京都で教育を受けました。良い先生に師事し、とても幸運でした。先生のお陰で造園家になることができました。大阪の久保貞教授が日本庭園のランドスケープ・アーキテクトへの道に導いてくれました。その後私は京都へ行き、日本庭園についてより深く学びました。どちらかというと理論重視で、当時の私の日本庭園の知識は学問的なものでした。渡米後、日本庭園を実際に作れるか自信はありませんでした。日本では、大阪でほんの数回の経験しかなく、私は未熟でした。コロナ・デル・マーでプロジェクトを持つことになった時、本当の意味で私の造園家としての仕事が始まりました。

I*: どのような経緯でそのプロジェクトに関わることになったのですか?

私の学生の兄弟が造園家で、会社で日本庭園を造る助けを必要としていました。それがスウェドローさんでした。私たちは非常に小さな日本庭園のプロジェクトから始めて、敷地全体を日本庭園にするようなプロジェクトまで手がけました。

* “I”はインタビュワー(ソージン・キム)


農業 教育 ガーデニング 庭園 日本庭園 造園 (landscape gardening) 移住 (migration)

日付: 2016年8月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1940年3月25日、13代続く大阪の庭師の家に生まれる。1962年大阪府立大学旧農学部を卒業後、京都大学大学院に進学。その後、カリフォルニア大学バークレー校に留学し修士号を取得。1969年に帰国し、京都大学で造園学を教える。1970年大阪で開催された日本万国博覧会の庭園設計に貢献。同年カリフォルニアに戻り、州立ポリテクニック大学ポモナ校の環境デザイン学部ランドスケープ学科で教えるかたわら、公共スペースや企業、個人宅の造園を手がけ、伝統的な日本様式に第二次世界大戦後のカリフォルニアの気候やライフスタイルを融合させた。

主な作品に、カリフォルニア州サンマリノのハンティントン図書館にある日本庭園の修復、トーランス・カルチュラル・アーツ・センターのパイン・ウィンド・ガーデンのデザイン、ロサンゼルスのリトル東京の日系アメリカ人文化コミュニティーセンター内ジェームズ・アーバイン・ガーデンのデザインがある。

上杉教授は、2000年に30年間教員として勤めた州立ポリテクニック大学ポモナ校から退職したが、名誉教授として活発に活動を継続した。2010年、長年の貢献が認められ日本政府から瑞宝中綬章を受章。2016年1月、75歳で永眠。(2016年4月)

 

* このインタビューは、2007年に全米日系人博物館で開催された「Landscaping America: Beyond the Japanese Garden」展のために、学芸員ソージン・キムが行ったものです。

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

高塩 明

ボーディングハウスでの荒れた生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

トム・ユキ

カリフォルニア州サリナスに移民として渡った家族(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)