ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1431/

5歳の娘の意思を尊重

そして南加子が五つくらいのときかしら。一生懸命、彼女に日本語を教えようと思ってたらね、「教えないでくれ」って言うんですよ。「教えないでくれって言ったって、それ将来の為に役に立つから、日本語を少し習いなさい。マミーが教えてあげるから」って。そしたら彼女ねぇ、小さなくせに、五つくらいのときにね、「I won’t say sorry I did not learn Japanese (日本語を学ばなかったからって後悔しない)」って言うんですね。それでね、「Please try not to teach me (もう私に教えないでちょうだい)」って。 だから、それっきり彼女に日本語教えないんです。

そしたら、今彼女、文句を言うんですよね。「何で教えなかったか」って。だから、「あなたが、絶対に教えないでくれって言ったじゃないか」って言った。でもね、「そんな小さい子供のね、話を真に受ける人はない」って言うんですよ。


日本人 言語

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・玻満子・シュナイダー(旧姓:天野)さんは、1925年、横浜に生まれる。1933年、ラテンアメリカでビジネスをする父芳太郎に連れられパナマで2年間過ごした。パナマへ残った父は、1942年に捕虜交換船によって日本へ戻ってきた。戦後、ラジオ局に勤めていた玻満子さんは、MISの一員として日本へ駐屯していたハリー・シュナイダーさんに出会う。1948年、日本でハリーさんと結婚し、1950年に戦争花嫁としてアメリカに渡る。その後、一女をさずかり、早いうちにアメリカの市民権も取得した。現在は、カリフォルニア州エンシニータスに在住している。(2014年9月)

ポーラ・オヨス・ハットリ

ひとつの言葉で考え、別の言葉で生活(スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

クリフォード・ウエダ

日本語学校(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ヘンリー・須藤

日本陸軍に入隊させられる (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

天野美代子

日本語とスペイン語両方を使って生活

天野博物館館長 (1929年生)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

両家族への適応(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

ジミー・ムラカミ

日本で英語を教える(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

パウロ・イサム・ヒラノ

ニッケイという言葉について

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ホリー・J・フジエ

日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)