ディスカバー・ニッケイ

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手紙を書く(英語)

(英語)その後、僕が日本に行って大体6か月が過ぎた頃、彼女は僕に、アメリカに帰って誰か素敵なアメリカ人の女の子とでも結婚しなさいよ、と言いました。僕は申し訳ない気持ちになりましたが、彼女は電車に乗って藤沢の家に帰ってしまいました。その後、彼女に会うことはありませんでした。僕はシカゴに戻り、手紙を書きました。僕は漢字も書けたし、漢字もローマ字も英語も使って、僕は、僕らは、連絡を取り合うことができました。でも、手紙は全てラジオ東京のシズコ・ナイトウに送っていました。彼女は僕の友人で、手紙を届けてくれました。僕はシズコ・ナイトウ宛てに手紙を書き、手紙は彼女に届きましたが、中身は僕の妻、当時はまだ妻ではありませんが、玻満子に宛てた内容でした。

2年間の手紙のやり取りがありましたが、僕らが連絡を取り合っていたことを、彼女のお父さんは全く知りませんでした。


軍隊 (armed forces) 花嫁 文通 軍隊 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ陸軍 退役軍人 戦争花嫁 妻たち 第二次世界大戦

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

キャロウェイ・久松 照美

姉妹4人が国際結婚

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

戦後日本行きを志願(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

キャロウェイ・久松 照美

親不孝

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

フランク・ソギ

アメリカ占領下の日本(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)