ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1346/

事業の拡大(英語)

(英語)利益が出る度に種や園芸用具などを買い足していきました、少しずつですが、種や植物を保護するための用具も増えていきました。2、3年以内にますます園芸場らしくなり、3年間パンジーを育てた後、4年目には敷地での栽培は困難になり、エジソン社からアナハイムのデール通り近くの土地を借りることにしました。仏教会という日系のお寺近くの土地を、その会社から借り、パンジーの栽培を始めました。

その後、毎年少しずつ栽培領域を広げ、サンフアンキャピストラーノに引っ越すまで、栽培地は8箇所に増え、合計約88エーカーになりました。園芸場は、毎年そのくらい拡大していました。


ビジネス 経済学 世代 園芸 移民 移住 (immigration) 一世 日本 経営 移住 (migration) 育苗業者(園芸) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2012年2月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

戦後に始めた輸入業(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

父による農業経営の成功(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

アメリカ人と日本人の連絡役(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

バート・A・コバヤシ

19歳で家族経営に携わる(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

バート・A・コバヤシ

仕事における体・心・精神の倫理(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

マーガレット・オダ

夫の洋ラン農園を継承(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世