ディスカバー・ニッケイ

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ホワイトハウスを待たせる(英語)

(英語)私が受けた初期の主要任務の1つは、ジミー・カーター大統領からのものでした。移民委員会が立ち上がり、数名の上院議員と司法委員会の議員、閣僚の代表者、そして4名の一般人がメンバーとして選出されることになりました。その中にアジア系のメンバーを入れたかったのでしょう。 電話があった時、私はユタ州でスキーをしていました。UCLAでクラスメイトだった友人が、「ローズ、ホワイトハウスから電話よ!」と私を呼びましたが、私は、「忙しいって言って」と言いました。 とにかく電話に出ると、「委員会に入ってほしい」というのです。私は、「第一、私は移民については何も知りません。相応しい人を何人か知っているから紹介します」と言いました。でも、「いや、君はもう任命されているので、来るように」と言われました。 私にとって、それは素晴らしい機会となりました。移民のことは何も知りませんでしたが、ワシントン、ホワイトハウス、米国議会の主要人物と繋がることができたからです。そしてその後、この頃築いたコネクションを賠償運動やマンザナール国立史跡認定のために長期にわたり利用することができたのです。


政府 法律 政治

日付: 2013年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ショーン・ハマモト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

ローズ・マツイ・オチ氏は、1938年12月15日カリフォルニア州ロサンゼルス東部に生まれました。第二次世界大戦の勃発により、当時まだ幼かったオチ氏は、一家と共にサンタアニタ競馬場跡地に強制収容されました。その後、一家は、当時の日系アメリカ人強制収容所の一つであったローワーに鉄道で移送されました。強制収容所から釈放されたオチ氏の両親は、国外退去を命じられましたが、市民権専門の弁護士がこれを覆し、両親を助けました。オチ氏は、一家の辛い体験を通して不当な扱いを知り、不正を正すことを学びました。

オチ氏は、人権や社会正義のために戦うことを目指し、法律の道に進むことを決意しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学士号を取得した後、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で理学修士号を取得し、ロヨラ法化大学院で法学士を取得しました。彼女は、貧困層のための弁護士、「レジー」としてU.S.C. Western Center on Law and Povertyでキャリアをスタートさせ、共同登録弁護士としてセラーノ対プリースト裁判に携わりました。この裁判は、教育の機会平等のための法改正に挑んだ画期的裁判でした。以後オチ氏は、カリフォルニア州認定弁護士、司法委員、懲戒審査官を務め、ロサンゼルス郡弁護士会のための初代AA運営委員会メンバーにもなりました。

また、近年ではツナキャニオン日系人抑留所の保存に貢献し、同抑留所は議会からの歴史遺産認定を受けました。オチ氏は2020年12月亡くなりました。 (2020年12月)

キャサリン・ドイ・トッド

日米文化会館との関わり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

控訴裁判所での仕事(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

エヴェリン・ヨシムラ

共通点 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

エヴェリン・ヨシムラ

『Gidra』の背景を理解 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

エヴェリン・ヨシムラ

『Gidra』の内容 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

A. ウォーレス・タシマ

優等生ではなかった(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士