ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1285/

Cincip(英語)

(英語)Cincipは、ピクニック(picnic)のスペルを逆にしたもので、自分たちは、ありきたりな古くさいピクニックとは違うんだぞ、と言いたくて付けたのだと思います。県人会単位のピクニックや全米ピクニックなんかもあったので、これは僕ら独自のピクニックにするんだ、というような意思表明でした。

「ギドラ」の人たちも大勢関わっていましたが、「ギドラ」のイベントではなかったと思います。社会運動のカウンターカルチャー的側面をギドラに見出す人たちもいるでしょうから、「ギドラ」のイベントという印象を持たれることはあるかもしれませんね。そういう意味では、「ギドラ」にもCincipにもそういう側面があり、カウンターカルチャー的だな、というようなところはありましたよね。ラブアンドピースが全て、みたいなね。

でも、運動に関わっていた全ての人にとって、皆で集まって楽しい時間を過ごす良い機会だったし、僕らは、楽しいことの好きな普通の若者でした。苦闘するだけでなく、楽しい時を過ごしたり、互いにつながったり、友達を作ったりすることも、僕らの苦闘の傍らにはありました。


コミュニティ

日付: 2011年9月29日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・クロミツ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

マイク・ムラセ氏は、弁護士、活動家、行政官、作家、写真家であり、福祉や社会変革活動、教育、行政、政治に40年以上にわたり携わってきました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の学部生時代には、アジア系アメリカ人研究センター(アジアンアメリカンスタディセンター)の立ち上げメンバーとなり、その後、UCLA、南カリフォルニア大学、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で民族学(民族研究)を教えました。

マイクのアジア系アメリカ人コミュニティとの関わりは深く、リトルトーキョー・サービスセンター(LTSC)の立ち上げに中心メンバーの1人として携わりました。このセンターは、リトルトーキョー、ひいてはロサンゼルス全体の日系アメリカ人コミュニティの社会福祉や地域経済発展のために設立され、マイクは、最初の5年間センター長を務めました。また、彼は、日系福祉権協会、リトル・トーキョー人権協会、補償を求める全国連合(NCRR)といった団体を支持し、著書には、「Little Tokyo: One Hundred Year History」があります。2006年、マイクはLTSC運営チームの一員としてセンターに戻り、現在サービスプログラム部門長を務めています。(2012年8月)

阪根 博

フジモリ元大統領にみる戦前と現代のペルー社会の違い

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

ペルーの一般大衆に選ばれたフジモリ元大統領

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

日系コミュニティがみるフジモリ元大統領

天野博物館事務局長(1948年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

田岡 功

一世に残された大きな役割

パラグアイ駐日大使(1943年生)

恩智 敏子 エレナ

大和市国際化協会のボランティアスタッフになったきっかけ(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

社会統合を促進するさまざまな参加方法(スペイン語)

在日日系ペルー人

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

政界入りのきっかけ(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

市民参加 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

キャサリン・ドイ・トッド

リトル東京で法律事務所を開業(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

JABA: 学生とコミュニティの繋がり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

日米文化会館との関わり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

ロバート・ナカムラ

突然の悟り (英語)

映画プロデューサー(1936年生)

ロバート・ナカムラ

自由への道 (英語)

映画プロデューサー(1936年生)

ロバート・ナカムラ

メディアを使いこなす (英語)

映画プロデューサー(1936年生)