https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1260/
花屋 (1916-2016年)
(英語) ええ、(帰れることになって)嬉しかったわ。解放される、ってね。
私たちは家に戻った。雑草はすっかり伸びていた。そうそう、祖父も一緒にいたのよ、まだ生きていたの。だから祖父を後部座席に座らせて、私が世話をしてた。家に着いたとき、オレンジがかった色の美しいバラの花が咲いていたの。だから私はそれを切って祖父の枕元に置いた。そしたら、「綺麗だね」って。私が「お爺ちゃんが植えた花だよ」と言うと、祖父はただ頷いていたわ。
あと、トムソン医師のことなのだけれど、とても素晴らしい人だった。ドイツ人で、バーバンク病院の創設者の一人。小さい病院でね。私たちが収容所に行っている間、トムソン医師はそこに祖父母をおいてくれた。地下室にね。「私が世話をする」と言ってくれたの。
それから、どういうわけか軍に居場所が見つかってね。トムソン医師を訪ねてきたの。ライフルとか銃を持って。彼らは「よそ者が地下にいるだろう」と言って入ってきた。トムソン医師は申し訳ない気持ちでいっぱいだったと言っていたわ。それで祖父母は連れて行かれてしまった。
でも医師は素晴らしかった。施設から戻って祖父が家で亡くなる際、ノースハリウッドの葬儀場で全ての準備を整えてくれた。祖母の葬儀も全て世話してくれたわ。棺や、花も。全て。だから本当にトムソン医師には感謝しているの。
日付: 2011年5月24日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
スミコ・コザワ氏は、1916年ロサンゼルス生まれ。五人兄弟の長女であり、第二次世界大戦前は日本で3年間、琴や生け花、茶道を学ぶ。家族が経営する、シルバーレイクの「トーキョー・フローリスト」は、新鮮な花々を適当な値段で買えるためハリウッドの地域で人気だった。スミコ氏はお店を手伝う中で、有名な無声映画スター、グレタ・ガルボを含む多くの人々に出会う機会を得る。日本が真珠湾を爆撃すると、スミコ氏と家族はマンザナへと送られる。スミコ氏はそこで家族、祖父、妹の世話をした。コザワ氏は、2016年12月、100歳で亡くなりました。(2016年12月)
戦後シカゴでの体験(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
日本の親戚を訪問(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
家紋を探る(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
家族構成(英語)
血管外科医(1921年生)
12歳で1930年のフォードを運転(英語)
4C-敵性外国人-に分類(英語)
本土におけるハワイの情報不足(英語)
Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)
収容所へ戻ろうとした時(英語)
政治活動家(1927-2010)
地元新聞紙による日系人への誤った解釈に対しての十代の頃の記憶(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
祖父母の閉ざされた過去 (英語)
プロフィギュアスケート選手。オリンピック金メダリスト。(1971年生)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)
弁護士(1955年生)