ディスカバー・ニッケイ

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父との思い出(英語)

(英語)そうですね、簡単に言えば、父は典型的な一世でした。第一に非常に厳しい父でした。ただしこれは父の一面で、私達の面倒も良く見てくれてました。働き者でしたね。亡くなるまで、道徳を非常に大切にしていました。信念も強く、同時にユーモアのセンスもありました。 確かファースト通りとサンペドロ通りのタウル・ビルだったと思いますけど、そのビルの3階の角に父の事務所がありましてね、そこにはよく行って、事務所の掃除を手伝いました。そしたら、子供達が大勢入ってきてね、父は子供達と話したり、笑ったりしてるんですね。本当に子供達に優しいんです。子供達が帰るときには、なにか物をあげたりしているんですよ。それで家に帰ってきて母に「ねぇお母さん、お父さんはよその子供達にあんなに優しいのに、家に帰ってきたら私達にはなんでいつも不機嫌顔なの」って言ってました。父がわたしたちにたいして好んで使った言葉は「バカ」でしたから。


家族 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration)

日付: 2010年2月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: エイコ・マスヤマ、キャロル・フジタ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

マーガレット・クロイワ氏は、佐賀県出身の医師、ダイシロウ・クロイワ氏と妻のアグネス・ハルヨ・オガワ・クロイワ氏の3女として生まれました。父であるクロイワ氏は、ターナー・ストリートの南加日本人病院に勤める一世の医師で、地域の重要人物であり、タシロ医師と共にカリフォルニア州を相手取り訴訟を起こした、5人の医師の1人でした。彼が診察にあたっていた地域は、ボイルハイツとリトル東京のタウル・ビルでした。クロイワ医師は、モンロビア療養所で結核患者の治療にも当たっていました。マーガレットと4人の姉妹は、ファースト通りとフィケット通りに当時新設されたばかりの日本人病院で生まれました。(2010年4月11日)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

パット・アダチ

父との関係(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

ポール・テラサキ

提供された腎臓をレシピエントへ輸送するために必要な処置(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ポール・テラサキ

移植後の患者の経過を調べるための登録システムを作成(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ポール・テラサキ

組織タイピング(適合性検査)と血液検査を使っての実父確定検査(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ポール・テラサキ

HLA(組織適合抗原)タイプと移植史に関する本(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ポール・テラサキ

最も重要な功績としてマイクロテストの開発 (英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ポール・テラサキ

移植成功率を高めるために必要な継続的な努力(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

トシオ・イナハラ

家族構成(英語)

血管外科医(1921年生)

トシオ・イナハラ

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

血管外科医(1921年生)