ディスカバー・ニッケイ

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表現の力:ボリビアのサンタクルスで構築された日本人のアイデンティティ(スペイン語)

(スペイン語)はじめて大きな洪水の被害を受けたあと、両親は都市部へ移転しました。そこで、それまで住んでいた日本人移住地の方々と疎遠になってしまったのです。100キロも離れてしまい、当時は今のような整備された道路はなく、行くにも行けない状態だったのです。しかし、次第に移転先のサンタクルスでも日本人コミュニティができました。そこで、両親とその仲間は日本語学校の必要性を感じたのです。私も、その学校の初期の生徒です。 貴殿がおっしゃるように、その日本語は私にとって母語でもあるのです。なぜなら5歳か6歳までは日本語しか話せませんでしたから。その後、スペイン語を覚えたのです。だから、自分の気持ちを表現するのもときには日本語の方が伝えやすいのです。また、対話の中で相手の気持ちを理解するにも日本語の方が互いにいいようなときもあります。このような仕事では、やはりメリットもあります。しかし他方デメリットもあるのです。なぜなら、礼儀作法などからも離れてしまうからです。そうした観点からしますとちょっと複雑になりますが、日本語ですと気持ちをもっと率直に伝えられるような気がします。また、日本語ができる日系人が赴任したということで、日本の一部分として、家族のように扱ってくれたのです。


アイデンティティ 言語

日付: 2009年3月24日

場所: 日本、東京都

インタビュアー: アルベルト・マツモト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1958年1月11日、ボリビア共和国、サンタクルス市で出生。1987年、オルーロ工科大学国立技術学部(Universidad Técnica de Oruro, Facultad Nacional de Ingeniería)を卒業。1989年から1999年まで、熱帯農産物研究所管理監督者(CIAT)で勤務。ほぼ同時期にサンタクルス市所在のボリビア地質学学会(GeoBol)の管理監督者も努める。1989年~2000年まで、食品会社IMBAの管理部長。その後1998年~2000年まで、アシミネ・モータースの部長職を、また2000年~2006年までは、クリスチャン・オートモーターズ(トヨタ代理店)のサンタクルス県技術部長も歴任。2007年3月、エボ・モラレス政権より在日ボリビア全権大使に任命され、4月に日本に赴任。2009年3月に離任。

アシミネ氏は、2014年6月、56歳で亡くなりました。(2014年12月)

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)

演歌歌手(1981年生)

アート・シバヤマ

アメリカ人二世と帰米との野球ゲーム(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

ピーター・ミズキ

米国国籍を持つ日本人の妻 (英語)

在日三世・剣道家

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

田中誠一

アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)