ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1040/

強制収容以前に経験したトラウマ (英語)

(英語) 私は、父はロングビーチの養豚牧場からまっすぐ家に戻って来ると思っていました。でも実際父は、戻りませんでした。父は刑務所に入れられたのです。その次の日には出所できたのですが、そこでの経験がつらいトラウマになったようです。父はその後、当時のことをほとんど語りませんでした。刑務所の中では、酔っぱらった人たちが、頭を殴られたり、ひどい扱いを受けていたそうです。でも、こんな話を父がしたのも1度きりで、その後一切その話をすることはありませんでした。この経験は、父の中にトラウマとなって強く残ったのだと思います。

でも、父の場合は、1日で刑務所を出ることができたのですが、他の多くの人たちは、特に、日系組織のリーダーや何か特権的な地位に居た人たちは、ひどいことに、もっと長く刑務所に入れられていたのです。そして家族は、父親の行方は何も知らされないままでした。

当時、よく言われていたのは、突然父親だけが引き離され、どこかわからないこところに連れて行かれることがあるから、コートや何か着るものは必ず持たせなさい、ということでした。そして父のことは、私にとってもトラウマとなりました。私も当時の経験を、しばらくの間話すことはできませんでしたし、誰も当時のことを語りませんでした。今では、強制収容の話はよく聞きますが、私にとっては、それ以前の経験の方が恐ろしかったのです。


差別 投獄 監禁 対人関係 人種差別 第二次世界大戦

日付: 2005年3月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グウェン・ジェンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サヤカ・シゲカワ医師は、1913年1月6日、カリフォルニア州サウス・パサデナに生まれました。幼少期に両肺肺炎を患った父を見舞った時に、医師や看護師と知り合い、自らも医師になることを決意します。シゲカワ医師は、南カリフォルニア大学(USC)医学部準備教育課程を経て、ストリッチ・ロヨラ・メディカルスクールに入学しました。シゲカワ医師は、入学した女子医学生4名の中の1人でした。教授や同僚による性差別に負けず、学業に勤しんだシゲカワ医師は、卒業後ロサンゼルスで医師として働き始めました。

しかしながら、1942年3月1日、シゲカワ医師は、旧競馬場だったサンタ・アニタ強制収容所へ初期の収容者の1人として収容されました。ノーマン・コバヤシ医師とフレッド・フジカワ医師による誘いを受けて、シゲカワ医師は収容所内で患者の治療を始めました。シゲカワ医師は、強制収容されたことが苦痛となり、精神的に落ち込んでいましたが、医療に従事することで救われたのです。当初、彼女に許されたのは皮膚の治療だけでしたが、しばらくして、産科や他の医療にも携わるようになりました。

戦後、彼女は医師として働き続け、医院を開業し、現在も同じ場所で医師として働いています。産科医となった39年の間で、シゲカワ医師は2万人以上の赤ちゃんを取り上げ、その全ての母親の命も守りました。シゲカワ医師は、2013年10月18日、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

Dale Minami
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二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

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