ディスカバー・ニッケイ

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喜んで医学校へ送り出してくれた両親 (英語)

(英語) 医学校への進学準備が整った私に、周りの人はこう言いました。「女の子を医学校に行かせても仕方ない。そのうち結婚するのだし、時間の無駄だ」と。でも、医療の仕事というのは、どんな状況にあってもできる仕事です。他の人に頼らなくてもできるのです。しかし、戦前UCLAを卒業したアジア系の女の子たちのほとんどは、全く就職できませんでした。また、同じように日系男子にとっても、たとえカリフォルニア工科大学を出ていたとしても、就職は大変難しい時代でした。農業に従事したり、日系企業で秘書や帳簿係として働かざるを得ませんでした。ですから、私が医学校に行くことを、ほとんどの人が時間の無駄と思ったのは、無理もないことです。でも、私の父も母も、「彼女がしたいことだから」と言ってくれました。大恐慌の時代でしたから、私の両親にとっても楽なことではありませんでしたが、両親は、気持ちよく私を医学校に送り出してくれました。


教育 医科大学

日付: 2005年3月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グウェン・ジェンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サヤカ・シゲカワ医師は、1913年1月6日、カリフォルニア州サウス・パサデナに生まれました。幼少期に両肺肺炎を患った父を見舞った時に、医師や看護師と知り合い、自らも医師になることを決意します。シゲカワ医師は、南カリフォルニア大学(USC)医学部準備教育課程を経て、ストリッチ・ロヨラ・メディカルスクールに入学しました。シゲカワ医師は、入学した女子医学生4名の中の1人でした。教授や同僚による性差別に負けず、学業に勤しんだシゲカワ医師は、卒業後ロサンゼルスで医師として働き始めました。

しかしながら、1942年3月1日、シゲカワ医師は、旧競馬場だったサンタ・アニタ強制収容所へ初期の収容者の1人として収容されました。ノーマン・コバヤシ医師とフレッド・フジカワ医師による誘いを受けて、シゲカワ医師は収容所内で患者の治療を始めました。シゲカワ医師は、強制収容されたことが苦痛となり、精神的に落ち込んでいましたが、医療に従事することで救われたのです。当初、彼女に許されたのは皮膚の治療だけでしたが、しばらくして、産科や他の医療にも携わるようになりました。

戦後、彼女は医師として働き続け、医院を開業し、現在も同じ場所で医師として働いています。産科医となった39年の間で、シゲカワ医師は2万人以上の赤ちゃんを取り上げ、その全ての母親の命も守りました。シゲカワ医師は、2013年10月18日、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

BJ・コバヤシ

弁護士から開発業者へ(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

ススム・“スス” ・イトウ

仕事を探していた時に感じた差別 (英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

ススム・“スス” ・イトウ

上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)