ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1016/

ジェロームからの異動を拒む(英語)

(英語)翌日、大隊の司令官がやって来ました。私がここにいることを聞いたか何かだったのでしょう。大隊(の隊員)は入って来ませんでしたが、司令官が入って来たのです。私はすぐに司令官に報告に行くと、それが済むや否や司令官は私に「今すぐ異動をしてもらいます。」と言いました。私はある意味ショックを受け「まだここに来たばかりです。私はただ報告に来ただけなのに、なぜ私を異動させるのですか?」と言いました。すると司令官は「いいですか、あなたは韓国人で、ここにいる人達は全員日系アメリカ人です。」「昔から韓国人と日本人は仲が悪い」「私もハワイ諸島にいたことがあるので、その辺のことはわかっている。」「それが理由だ。」と言うのです。そこで私は「しかし彼らはアメリカ人であり、私もアメリカ人です。私達は皆同じ目的で戦っています。だから何故私がここに入れないのか理由がわかりません。」と言いました。


アーカンソー州 軍隊 (armed forces) 強制収容所 ジェローム強制収容所 軍隊 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1995年8月28日

場所: 米国、カリフォルニア州

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。

戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。

キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。

後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)