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一体、西南地区の日系人はどうしてどこに消えてしまったのか? その問いに、西南シニアセンターのプレジデントである柴邦雄さんが答えてくれた。
「私が思うに、ワッツの暴動が一つのきっかけになったように思います。あの暴動は街がまるごとなくなってしまうほど激しいものでした。最近の人は、暴動と言うと、1992年に起こったロサンゼルス暴動を思い浮かべるようですが、ワッツとはまったく規模が違う」
ワッツ暴動とは、1965年に西南地区にも近いワッツ市(現在はロサンゼルス市に吸収)を中心に数日間にわたって続いたアフリカ系による暴動だ。きっかけは蛇行運転していたアフリカ系男性を白人警官が逮捕したこと。その光景を見守っていたアフリカ系住民が普段から警官に対して抱えていた不満を一気に爆発させた。事態は州兵を導入して鎮圧する事態にまで発展した。
柴さんは、しかし、ワッツ暴動が日系人のエリアからの流出の1つのきっかけになったとは言え、日系人は被害を受けていないと証言する。
「私がなぜ、ここに今まで残っているか? あそこまでの暴動を経験しても、私自身、被害を受けなかったし、出て行く理由にはならなかったからです。それでも、周囲の日系人はオレンジやサウスベイ、バレーの方面に引っ越して行きました」
日系とアフリカ系が“共存”
ワッツ暴動の2年前の1963年、日本から西南地区に移り住んだ三宅良彦さんも、当時の西南地区について語ってくれた。三宅さんは帰米二世の父親が暮らしていた西南に、11歳の時に母親と兄弟と共に合流してきた。
「60年代、西南では日系人と黒人は自然に“共存”していましたね。地元の中学のクラスメートの顔を思い出すと、東洋人2割、スパニッシュ5%、残りが黒人でした。白人はいませんでした」
ワッツ暴動の記憶は三宅さんの脳裏にも鮮明に焼き付いている。
「戒厳令が敷かれ、暴動は2週間くらい続きました。地域内の道路を軍用車がゆっくり走っていき、州兵が銃を構えていた光景が蘇ります。でも、黒人たちは、私たち日系人に被害を与えるようなことはしませんでした。だから、ワッツで日系人の移動が始まったと言うよりも、むしろ日系人が経済的に豊かになって、郊外の住宅地に転出したというのが実態だと思いますね」
そして、ワッツ暴動後に高校生になった三宅さんに「西南地区で過ごした青春」について聞いた。
「高校生が集まっていたのは、何と言ってもホリデーボウル。30レーンか40レーンあった大きな日系人経営のボウリング場です。週末に行くと座る場所もないくらい予約でいっぱい、しかも日系人ばっかり。場内にはレストランもあって、そこで食べる夜食としてのサイミンが大人気でしたね。当時はリトルトーキョーにあったアトミックのサイミンか、ホリデーボウルのサイミンかと言われていました」
三宅さんは自転車に乗って、羅府新報と加州毎日の新聞配達もしていた。夕方のアルバイトとして、西南地区の日系家庭200軒に配達して回ったのだ。それだけに周囲に何があったかもよく覚えている。三宅さんは地図を描き、クレンショーとジェファソンの通りを中心に東西南北数ブロックにわたって、日系の商店が集中していた様子を再現した。
「今はリトルトーキョーで眼鏡屋さんになっている倉田商会や、1カ月半遅れの日本の雑誌を買っていた書店の博文堂、しゃれた雑貨を置いていたコービーズや、友達の実家のリカーショップ、日系経営の不動産屋、中華料理屋、床屋に和菓子屋…。私の父がやっていた柔道のクレンショー道場。当時は柔道が流行っていて、あちらこちらに柔道の道場がありました」
日系の店が減ったのは1968年くらいだと三宅さんは言う。「僕らが中心になって運営していたダンスパーティーも下火になって、西南でのイベントもどんどん減っていきました」。日系にこだわる三宅さんたちから下の世代へと、世代交替が進んだ結果、街の活気も失われていった。
そして19歳で日本に渡り、さらに7年後にアメリカに戻って来た頃、三宅さんの両親の家も西南からパサデナに移っていた。以後、三宅さんも西南には住むことはなかった。
「7年後にアメリカに戻って来た時、西南に日系人がいなくなったのを見て、随分寂しく感じました。今でも銀行に用事があるので、時々、西南には行きますけど、今はもう何も感じませんね。懐かしくはありますが。でも嬉しいのは、日系人の住んでいた家の日本庭園を黒人が綺麗に手入れしてくれていること。若い時から日系人と共存して日系のいい影響を感じてくれていたんだと思います」
© 2013 Keiko Fukuda