ディスカバー・ニッケイ

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福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

@fukuda

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)


この執筆者によるストーリー

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日本人俳優、ハリウッドに挑戦 その1

2008年8月7日 • 福田 恵子

ハリウッドで活躍する日本人俳優として思い浮かべるのは、誰だろう?ジョージ・タケイ?彼はアメリカ生まれの日系人であって正確には日本人ではな い。では、「ヒーローズ」で一躍ブレイクしたマシ・オカ?彼は日本生まれの日本人だが、幼い頃にアメリカに移住してアメリカで教育を受けている。 10年以上前のことになるが、アメリカ人に「日本人で最も有名な俳優は?」というアンケートを取った結果が日本のテレビ番組で放送されていた。アメリカ人が選んだ第一位は、何とブルース・リーだった。確かに同じア…

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難民として米国移住した日本人たち その4: 渡米2年で郷里に家が建った-小屋喜生さん-

2008年7月27日 • 福田 恵子

>>その3 (西屋国弘さん)ロサンゼルス郊外ノースリッジで引退生活を送る小屋さんは串木野市出身。1955年、難民移民枠を適用し、夫婦で渡米してきた。 串木野では、戦争中に落とされた爆弾で実家を焼失、一間のバラック家に家族と親戚10人で寝起きしていた。仕事は農業。グリーンハウスで野菜を育て ていた。しかし、急激なインフレ下でどんなに働いても暮らしは楽にならない。そんな時、市役所でアメリカ行きの話を耳にした。すぐにその話に飛びついた が、難民と認定されるまでに時間がかかった。…

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難民として米国移住した日本人たち その3: 努力すれば報われる国-西屋国弘さん-

2008年7月20日 • 福田 恵子

その2(宮内武幸さん)>>ロサンゼルス空港に近いウェストチェスター在住の西屋さんは、構造設計が専門である。彼もまた難民として渡米してきた一人である。 西屋さんは鹿児島県串木野市の出身。小学校を出るとすぐに日本通運の事務所に就職した。「同じ事務所で、旧制中学を出た人と同じ仕事をしていても、学歴から来る差別がある。それが嫌だった」。そんな時、農業研修生としてアメリカを見てきた内田善一郎さんから「アメリカは素晴らしい国だ」という話を聞かされた。どんどん夢が膨らんだ。自分もアメリ…

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草月ほどクリエイティブな芸術はない:武市治子さん

2008年7月18日 • 福田 恵子

素材に踏み込むことで新しい世界が広がる夫が経営する、ロサンゼルス近郊のアルハンブラの設計事務所でインテリアデザイナーを務める武市治子さんが、草月流に入門したのは1980年。生き た植物を使ってデザインする生け花に新鮮さと魅力を感じ、以来28年間、インテリアデザインの仕事と二足の草鞋を履いて取り組み続けた。 1989年に師範として指導許可を取得、さっそく日英両語で教え始めた。「どこの国の方でも、お花を習いたいという方は、何か芸術的なことを勉強し ている人が多いですね。陶芸や…

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難民として米国移住した日本人たち その2: 日航機が太平洋就航した年に渡米-宮内武幸さん-

2008年7月12日 • 福田 恵子

その1 (難民移民誕生の経緯)>> 難民救済法によって渡米してきた鹿児島県出身者は約300名。その中の1名が、日置郡出身、現在はモントレーパークに暮らす宮内武幸さんだ。鹿児島 では狭い土地を切り開く開拓農業に従事していた宮内さんにとって、広大なアメリカの大地での就労は願ってもないチャンスに思えた。そして、1955年10月、日本航空が初めて太平洋線を就航させた年に、宮内さんは日航機で海を渡った。 彼の目的地はサンフランシスコの内陸にあるデラノキャンプ。人手が必要な…

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難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

2008年7月5日 • 福田 恵子

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。 事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その時…

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花の声に耳傾ける -北島蓉幸さん-

2008年7月3日 • 福田 恵子

アメリカ人の日本にはない発想に驚く日本の大学で地質工学を専攻し、卒業後は造園会社に就職。大学時代には既に入門していた北島さんの草月歴は37年になる。 「大きさが違うだけで、庭も生け花も本来の作り方は同じです。生け花の主、添え、控えの構造は日本庭園にもそのまま当てはまります」 日本造園技師として渡米したのは1979年。アメリカでも、草月の沖中春洋先生に師事した後に自分でも教え始めた。日本で師範の資格を取得していた北島さんに、日米の生け花の違いを聞いた。 「アメリカ人は、…

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「アメリカで育つ日本の子どもたち」-編著者 片岡裕子さんに聞く-

2008年5月29日 • 福田 恵子

全米各地の日本語教育の実態と、補習校や日本語学校に通う日本の子供たちの意識や日本語力について調査した「アメリカで育つ日本の子どもたち」を著した片岡裕子さんは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本語学科で教授を務めている。 片岡さん自身、子供たちをバイリンガルに育てることに力を注いだ母親の一人である。 アメリカ生まれの子供たちの第一言語を日本語にしたいと望んだ片岡さんは、家庭の中での言語を日本語に統一したそうだ。片岡さんは当然日本語、アメ リカ人の夫も日本語を話す。ホ…

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新二世のアイデンティティー: 補習校か、日本語学校か?

2008年5月22日 • 福田 恵子

私の子供たちはアメリカ生まれの二世である。私と私の夫は日本生まれの日本人。そんな日本語を第一言語とする我が家の長男が最初に通った学校は、ロサンゼルス郊外のトーランスにある日系の幼稚園だった。この幼稚園では英語は一切使わず、徹底した日本式の幼児教育を行っている。1年後、3歳になった息子は英語のプレスクールにデビューした。当時、英語はゼロの状態だったが、何とかプレキンダーガーテン、キンダーガーテンと進級し、地元レドンドビーチ市の公立小学校の1年生になった。今から5年前のことであ…

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母国アメリカと戦った日系人たち その3: 兄弟で敵味方に分かれて戦う-阿久根三郎さん-

2008年4月26日 • 福田 恵子

その2 (大森馨一さん)>>阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を…