福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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2018年渡米、グラミー賞にノミネートされたミュージシャンのMasa Takumiさん

音楽業界の最高峰の地へ  2023年2月、ロサンゼルスで授賞式が開催される第65回グラミー賞グローバルミュージックアルバム部門のノミニーの中に日本人の名前がある。その名はMasa Takumi。日本では宅見将典という名前で、ミュージシャン、作曲家、プロデューサーとして活躍し、プロデュースを手がけたアーティストにはEXILE、DA PUMP、AAAといった錚々たる名前が並ぶ。 Masaさんは、あるきっかけを経て2018年1月から、活動のベースをロサンゼルスに移して今に至る。なぜ、アメリカで活動しようと思ったのか、渡米後、自身に変化はあったか、さらに将来のビジョンについて、グラミー賞授賞式を1カ月後に控えた時期に話を聞くことができた。 渡米のきっかけは、2011年のグラミー賞授賞式への出席に遡る。  「僕がバンドメンバーとして参加したアルバムがグラミー賞にノミネートされたので、会場で実際の式に出席しました。31歳でした。その時に式の演出やアーティストの圧倒的なパフォーマンスに、(音楽の)世界の最高峰がいかにすごいかということを目の当たりにし、彼ら(パフォーマー)がまるで自分たちとは違う生き物であるかのようにさえ感じたのです。特に感銘を受けたのは、僕の想像の枠を超えたアッシャーとジャスティン・ビーバーのパフォーマンスでした。 その時からアメリカに1年の…

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第11回 世代をつなぐ日本語テレビ 『Japan Hollywood Network』

視聴者の最大母数は85万人 30年前に日本からロサンゼルスに移り住んだ時、新しい習慣が生まれた。それは日曜の夜、現地で放送されている日本のテレビドラマを見ることだ。ロサンゼルスに来るまでは出版社で忙しい日々を送っていたので、テレビドラマを見ることなどほとんどなかったし、何より日本のドラマよりハリウッド映画を見る方がずっと楽しかった。しかし、いざ日本を離れるとそれまで見たこともなかった『渡る世間は鬼ばかり』といったドラマを楽しみに日曜を迎えるようになった。それは自分でも驚くほどの劇的変化だった。しかも日本語の台詞はそのままで英語字幕まで付いている。「この日本語はこう訳すのか」と勉強になったりもした。 私の記憶では、日本のドラマはUTBという放送局が日曜の夕方6時半から、そしてまた別のAHC(アサヒホームキャスト)という局が夜の9時から放送していた。さらにUTBは平日の朝、地元のローカルニュースをワイドショー形式で放送していたこともあり、「ロサンゼルスの日系社会に密着したメディア」という印象が強かった。 現在、UTBはすでになく、同社社長だった寺坂重人さんが2018年に、UTBの業務を引き継ぐ形で新しく立ち上げたJapan Hollywood Networkが、毎週日曜の夕方からローカルニュース、日本のバラエティーとドラマを放送している。地上波デジタル放送で視聴できるほか、ケー…

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被爆者である母の経験を小説に — キャサリン・バーキンショーさん

娘の病気と母の告白 「ラスト・チェリー・ブロッサム」という小説がある。戦時下の広島を舞台に、多感な少女ゆりこと優しい父、ゆりこが距離を感じる同居の叔母が主要な登場人物となる物語だ。小説の後半では、広島の街を焼土に変えた8月6日、さらにその後の彼らの運命が描かれる。原爆に至るまでの前半は戦時中の日本人の質素だけれど丁寧な暮らしぶりが細かい筆致で描かれている。私の頭の中では、ゆりこの家族のそれぞれの生き生きとした人物像と彼らの感情の機微、日々のやりとりが映像として展開した。それはまるで私が好きな小津安二郎の映画を見ているようだった。しかし、そこで、あの残酷な原爆の日が訪れる。それまでの家族で共に過ごした、ささやかな幸せで穏やかな日常が一瞬で壊され、彼らは深い悲しみと肉体的な苦しみを背負わされることになるのだ。 この小説を書いたのが、キャサリン・バーキンショーという名前のアメリカ人女性と聞いて驚いた。どうやって戦時中の広島の様子をここまで鮮やかに再現できたのだろうか?彼女の母親、広島出身のとしこさんが主人公ゆりこのモデルということが、その答えだ。 私は、東海岸在住のキャサリンさんにオンラインで取材させてもらうという機会を得て、小説完成までの経緯とアメリカ人を父に日本人を母に持つ、日系2世としての彼女のアイデンティーについて聞いた。彼女の両親は1959年に日本で出会い、結婚し、…

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米国で生きる日本人の選択

アメリカ市民として日本で生活する大内二三夫さん

米生活50年で再び日本へ 25歳でアメリカに渡った大内二三夫さんは、フロリダ大学の大学院で博士号取得後に化学会社のデュポンに入社。その後、ワシントン大学で長年教鞭を執った物質材料工学の専門家だ。2022年6月に材料工学科教授の職を最後に、同学を退職した大内さんが、次に住む場所として選んだのが長野県松本市だった。 「アメリカでは50年近く暮らし、楽しい思いもしたし、達成感も得られました。私は25年を一つの単位としてとらえています。最初の25年は日本で生活し、次の50年はアメリカ、さて次の25年をどうしようと考えた時に再び日本で暮らしてみたいと思いました。そして、できれば全く違ったことをやってみたいという思いに駆られ、バイオリンの製作を始めることにしました。 この決断に至ったのはコロナ禍が大きく関係しています。人との交流が絶たれていた間に、自分で再び新しい挑戦がしたいと考えました。私の家族には音楽家が多く、その中で私一人がサイエンティストなのです。ワイフと娘はピアニストで、娘の旦那も作曲家・バイオリニストで、孫はバイオリンをやっています。それで、私は孫娘のためにいつかバイオリンを作ってあげたいと思ったのです。バイオリン作りの経験は全くありません(笑)」。 日本に移住し、新しくバイオリン作りを退職後の人生を捧げたいと妻のすみよさんに言うと、「それでは(日本に)行きましょう」とす…

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戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第3回 再び満州の地へ

祖父の足跡を訪ねて 母と祖母の満州からの引き揚げから40年以上が経過した、今から34年前の1988年、私はかねてから温めていた計画を実行に移した。それは、母と祖母、そして私の三代で旧満州の地を訪ねるというものだった。私はその頃、東京の出版社に勤務していた。そして、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画、満州の傀儡皇帝、溥儀の一生を描いた『ラストエンペラー』を見て、幼い頃から母に聞いていた満州のイメージを具体的に描けるようになっていた。 祖母のカヨは当時、70歳。祖母と母の念願だった、スイカの駅で別れた後に捕虜として亡くなった祖父の最期の地を訪れるならその時しかないように思えた。ただし、まだ天安門事件前の中国では自由旅行は許されていなかった。中国政府が派遣する専門ガイドの同行が必須だったため、費用もかなり高かったと記憶しているが、それでも自由化を待っていたら祖母のタイミングを逃すことになるかもしれない。彼女に気力、体力が残っている間に決行するしかない。 私は中国政府の旅行代理店に、北京、ハルビン、牡丹江を1週間で巡るツアーの旅程作成を依頼し、88年のゴールデンウィークの連休に、大分から上京した母と祖母と共に中国へと旅立った。牡丹江は祖父が亡くなったソ連軍収容所があった街だ。ハルビンは牡丹江に行くための経由地だった。 母の故郷スイカへ 北京空港では、20代に見える若い女性が…

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