ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/1/5/north-american-times-11-pt1/

第11回(前編) 写真結婚の隆盛

前回は『北米時事』の歴史をテーマにお伝えした。今回は、1910年頃から隆盛を極めた写真結婚について、1918年から1920年頃の記事を紹介したい。

1900年に入った頃から、アメリカで日本人に対しての排日運動が激しくなった。日本政府はこれに対応して、1908年に日米紳士協約を米国と締結した。この協約によって日本人の米国移民が制限され、既に米国に移住していた日本人労働者の一時帰国も難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。この写真結婚によって、多くの日系2世が誕生することになった。

写真結婚の様子

1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で、写真結婚の様子が次のように語られている。

中村赤蜻蛉「メーン街盛衰記」(『北米時事』1939年1月1日)

「1907年が渡米移民の最後の年となった。即ち日米紳士協約がこの年の7月1日から実効を生ずることゝなったからである。然るに引き続いて写真結婚が可能となった為め、1908年以降、船毎に花嫁さんが押し寄せスミス・コープは時に珍奇妙々の悲喜劇を演じた。

船に満載された花嫁さんがデッキに寄って悉(ことごと)く申し合わせたやうに懐中の小照を覗いては埠頭の人混みを物色しておる。又た埠頭に出迎へと出掛けた婿殿達は婿殿達でこれ又た各自のポケットを覗いてはデッキの上の花嫁群をあれかこれかと探索してをる。この光景は何とも例へやうのない情趣を誘った。顔と顔を見合せて卒倒した者、顔を発見してそれぞと判った瞬間、逃げ去って折角四千マイルの波濤(はとう)を冒してきた花嫁を置いてけぼりにした者等様々だった。(中略)

この花嫁渡米開始を一転機として独身時代の就働生活が定住化するの途上に就き所謂(いわゆる)ファミリーライフというものがこの後から展開されることとなったのである」

「写真花嫁とは何」 白人の観たる写真結婚(1919年7月31日号)

「当地の一米紙は写真花嫁とは何ぞや、と題しその説明を与えるが、外人の観察を参考までに紹介し置かん。『日本の写真花嫁』と云ふ語は極めて普通の言葉であるが、その手続きを知る者は少なくない。その手続きは斯うである。

シアトルに居る日本人が、日本に居る娘と結婚を希望するが、日本へ帰ってゆくことを欲しない場合に彼は委任結婚をするのである。即ち日本にいる友人に頼んで、自分の代理として結婚して貫うのである。結婚が済むと花嫁の写真を旅券に添付する。之を日本の移民官が調べて、娘は乗船を許可される。シアトルに着くと、彼女は移民局に留置せられ、その委任した夫が連れに来た時引き渡されるのである。

斯様な方法に由らないで入国する日本婦人はめったに無い。移民官は男女を問わず移民の入国を防ぎたいのであるが写真花嫁の組織あるが為、移民官は何事をもなし得ないのである」


写真結婚の賛否両論

写真結婚は日米紳士協約で合意されたものとして、写真花嫁は1910年代に非常に増加していった。写真結婚については賛否両論、様々な意見があった。日本側からの在米独身男性の結婚に対する意見として、広島県の地方新聞『芸備日日新聞』からの抜粋記事が『北米時事』にも掲載された。

「観光団と花嫁」(1919年5月9日号)

「アメリカ移民は全くできなくなったが、現在、在米邦人は約15万人で合衆国西部諸市を中心に農業、果物、漁業、洗濯、伐木その他種々の商業等に従事しているが、邦人の女僅か4500~4600人しか渡米していないので、邦人の妻を持っている者は十分の一で独身者が多く、米国の女との結婚は幸福なるものが少ない所から、日本人の妻を迎えるために、冬の暇な時期を見て、青年観光団多数が来るが、実は迎妻にきて配偶者を得るために帰国する筈である。

本年帰った観光団長の話によれば、団員は広島県、岡山県、山口県、和歌山県の移民思想の発達した所の候補者を探し、殆ど定まった者が多いとの事。何故女が行くかと云うに、不縁の人、婚期の遅れた者、中には隣村の誰されはアメリカへ行って、月々何十円実家に送金するの、蔵を建てて行ったのといふ虚栄願望から進んで行きたがる。又は姑や小姑の煩わしさ多い内地の縁談を嫌う者、又稀に技術例えばミシン刺繍を習ひたいいう者もあるが、曰く付きの女子が七八割を占めている。

日本では最近、結婚準備費用が莫大かかるので、和服の調度のいらぬ在米邦人の求婚に応ずる親もある。これは開けた人達である。近年、写真結婚の弊を一般が識ったので、何うしてもは本人がこなけれが相談に乗り手が少なく、写真だと求婚条件の、半分値引きされ、化け物のような女子でなければ、なかなか行かない」

「観光団と花嫁」(『北米時事』1919年5月9日)

「昨年中沙港に上陸せる写真花嫁千六百」(1919年7月28日号)

「カリフォルニア州選出の上院議員フキソン氏は例の如く排日運動に熱中せるが、此程国務省に報じて曰く。日本汽船コレア丸は又もや150名の写真花嫁を輸入せり。此れ紳士協約を破壊するものなりと。

シアトル移民官のホワイト氏は曰く。昨年中シアトルを経て、上陸せし日本の写真花嫁は1500乃至1600人なるが、彼女らは一々厳密なる調査の後、入国を許可せらるゝものにして、決して紳士協約を破棄するものにあらずと」

「昨年中沙港に上陸せる写真花嫁千六百」(『北米時事』1919年7月28日)


第10回(その3)
でも紹介した『北米時事』女性記者として登場した高谷しか子が写真結婚に対して寄稿している。

高谷しか子「在米写婚婦人の覚悟」(1920年1月1日号)

高谷しか子「在米写婚婦人の覚悟」(『北米時事』1920年1月1日)

「日本人の現状は結婚法は親と親の約束のみで本人同志は不見不知(みずしらず)に結婚する者やタッタ一度の見合いで結婚する者がたくさんある状態で、写真は見合いに匹敵する。写真の交換があり月の下、花の影に恋を囁(ささ)やくに等しきラブレターの往復があって寧ろそれは日本人にとっての自主的、合理的であると言える。(中略)

写婚婦人の皆様、自己のみ見詰め、愚な思ひに苦しみ悲しむ場合ではありませぬ。封建時代に閉じ込められていた弱い女は今其扉を開放されて、男子と対等に歩行できる様になった。今大象の足に恐れて、逃げ逃げ吠える子犬の如く強いものに圧せられて泣く弱いものであってはならない。私達は活動写真に出る太った女が亭主のお尻を蹴って仕事に出す様な強い女であらねばならぬ。(中略)

戸外は今排斥という大きな槌を振り上げている。私達は其下を潜る夫と子供等を窓の内よりじっと見守っていなければならない」

第11回(後編) >>

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

 

*本稿は、『北米報知』に2022年3月5日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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