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第16回 移民を運んだ船の物語「船にみる日本人移民史」から

今日のように海外への渡航が飛行機によるものだった時代と異なり、かつては、島国である日本から海外へとなれば船便に頼るのが当たり前だった。北米・南米などへ移住する人たちも船で長い時間をかけてようやく異国にたどり着いた。

横浜、神戸から大型の客船に乗り込んだ人は数知れない。こうした移民を乗せた船については、横浜の港に近い日本郵船歴史博物館に行くと、当時の様子などがわかる資料があるが、移民船というテーマにしぼってまとめて紹介された書籍はあまりみあたらない。おそらく、「船にみる日本人移民史 笠戸丸からクルーズ客船へ」(山田廸生著、中公新書、1998年)くらいではないだろうか。

「日本移民学会」があるように、移民についてはさまざまな角度から研究されているが、本書の著者、山田廸生は、移民研究者ではなく、日本海事史学会という「船舶・航海・水運・水産に関する人文・技術の史的研究」を行う学会に所属する専門家である。

山田は、あとがきのなかで、移民船の歴史に取り組もうとしたところ、関係する史書のなかに、移民船についての記述が非常に少ないことに気づき、また、新天地への架け橋ともなる移民船についての関心が移民史のうえで希薄なのはなんとも解せないと感じた。

しかし、その理由について『蒼茫』を読んでわかったような気がしたという。『蒼茫』は、ブラジルへの移民を描いた石川達三が書いた小説で3部作からなるが、1935年に発表された作品(のちに第1部となった)は、その年に第一回芥川賞を受賞した。

第2部のなかに「この船の全部の移民たちにとって、航海の四十五日はほとんど生涯のブランクな頁であった。彼等の目的はブラジルの耕地であり、そこへ着くまでの船中生活は無意味なものにすぎなかった。ただ丈夫で向こうへつきさえすればいい、退屈な期間であった。」という件に出会い、「なるほど、多くの移民たちにとって、船の生活は生涯の空白のページであったのかもしれない」と山田はいう。

たしかに、多くの移民は豊かなわけはなく、三等船室という決して快適とは言えない環境で揺られていたわけで、移民船についての関心は薄く、語ることもなかったのだろう。しかし、移民開始の当初から移民を運んだのは船である。船と移民は切っても切れない関係にあり、また遠洋航路自体も移民という大量の輸送需要に支えられていたことから、著者は、客船の歴史としての移民船を、移民の歴史とからめてとらえている。


戦争で変わる船の運命

全体として、主に南米への移民、移民船についてまとめられているが、どんな船が、どんな航路でどのように運行されたか。長い船旅はどのようなもので、船内の設備はどうだったのか、また、渡航にあたって人々はどんな準備をしたのか……。細部にわたって歴史を追いながら解説している。

まずは、移民船として有名な笠戸丸について。1908(明治41)年、最初の日本からブラジルへの契約移民160余家族、781人が乗船したのが東洋汽船の笠戸丸だが、この船の来歴が実に興味深い。さすが海事史の専門家だけに、登場する船についての解説が詳しい。

笠戸丸は、イギリスで貨客船ポトシとして進水し、その後ロシア義勇艦隊協会に売却され、追加工事を施され義勇艦カザンとなる。母港をオデッサ(ウクライナ)とし、オデッサ〜長崎〜ウラジオストク航路に使われた。日露戦争が勃発するとロシア太平洋艦隊が立てこもる旅順港に投錨、しかし旅順が陥落すると日本海軍に接収され、カザンの名をとって笠戸丸となった。これを移民船を運航させていた東洋汽船が海軍省から借り、極東〜南米西岸航路に投入したという。

これほどまでではないが、移民船に使われた貨客船が、活躍する航路や役割を変えながら、世界の港を行き来きし、そして、その役目を終わったあとに、近づく戦争への対応を迫られる。「ぶえのすあいれす丸」や「あるぜんちな丸」のように、軍用、そして国威発揚のために姿を変えていく。

笠戸丸同様に南米の移民船として活躍した多くの船が、最後は軍事輸送に従事する。

「海軍の特設艦に変身したものもある。『さんとす丸』と『りおでじゃねいろ丸』は潜水母艦に改装され、『あるぜんちな丸』は空母『海鷹』として就役した。そして全船が戦火の犠牲となり、海底に没した。」と、本書「ブラジル移民全盛期の移民船」の章を著者はこう結んでいる。

不安や期待を抱えながら、海を渡り異国へ向かった日本人を乗せてきた、移民船(貨客船)だが、戦争により移民は途絶え、すべて国家の管理下に置かれ、太平洋をはじめ当時の日本の勢力圏内を運行するなかで、次々と潜水艦の攻撃に遭うなどして、およそ2700隻が戦時遭難船泊として沈没した。


地球を回る航路

日本の集団での海外移民は、明治元年にハワイに移民した元年者といわれる一団が最初で、続いて、会津藩から藩の軍事顧問であるプロシア人のヘンリー・シュネルに率いられ、カリフォルニアのサクラメントの西に入植し若松コロニーをつくった一団があった。

彼等は外国の帆船や汽船で渡航したが、その後、政府間の取り決めによるハワイへ「官約移民」がはじまり、日本船とアメリカ船が使われた。官約に代わって移民会社が窓口になってはじまる私約移民の時代に入ると、最初に愛国丸というチャーター船が使われるが、このころは外国から買った老朽船が多かったという。

契約労働が法律で禁止されると、アメリカへは自由渡航による移民の時代になっていき、1896(明治29)年に日本郵船が、香港〜日本〜シアトル間の定期航路を開業、新興の東洋汽船がサンフランシスコ航路を開業した。しかし、この後排日の気運が高まり、渡航者も減り、移民船は影響を受ける。そこで移民会社は南米に目を向け、南米への航路が活性化する。

本書では、ブラジルをはじめペルーなど南米への航路や移民船の歴史を細かく追っている。南米移民については、戦争で一時中断するが、戦後になって再開される。最初の南米への移民船として1899(明治32)年横浜から太平洋を渡りペルーへ向かった佐倉丸は、一ヵ月を越える航海中どこにも寄港しなかった。

その後南米へは、太平洋を渡り北米に寄ってから南下し、ペルーやチリに行く航路や、北米に寄ってから、途中パナマ運河を通って大西洋側に出て、ブラジルやアルゼンチンへ到達する東航航路と、日本からシンガポールなどに寄って、西へ進みアフリカのケニアあたりを経由して大西洋を渡って南米大陸に到達する西航航路があった。いずれにしても、移民、特に南米への移民は、東へ西への大航海の末にようやく目的地にたどり着いた。

時代がすすみ船内の環境が整備されてくると、長い航海もそれほど苦にならなくなったようだが、当初、三等船室は蚕棚のベッドに自然通風と扇風機だけの換気で、プライバシーはほとんどないといった息苦しいものだった。

また、航海の途中で伝染病が発生するといった事件も起き、死者がでたこともあった。こうした船内の設備や航海中の生活についても本書では、細かく記されている。こうした船中での苦労や不安は計り知れない。しかし、新天地ではじまった悪戦奮闘の日々は、船中のことなどを忘却の彼方に消してしまったのだろう。移民による船の記録が少ないのもわかるような気がする。

 

© 2022 Ryusuke Kawai

書評 レビュー
このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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