1945年末、オレゴン州ポートランドから、清野一家は横須賀へと向かうゴードン船に乗り込み、父母の故郷である鹿児島県の津貫へと向かった。戦後の日本での新たな生活は十分な食糧もなければ、田舎にはいまだ水道も通っておらず井戸から水を汲むような生活だった。敏幸はここで津貫小学校の2年生に進学する。
「確かツールレーキでは学校は日本語だけでしたので、帰って2年生にすぐに入りましたが、日本語はあまり不便しなかったですね」。
全米各地の収容所にはアメリカの公立学校があったが、ツールレイク隔離収容所では1943年に収容者らの資金によって、日本の教育に準じた国民学校が作られ、そこで日本語で教育が行われた。敏幸もそこに通ったのだろう。
「ただ僕の日本語は鹿児島弁じゃないですし、アメリカから来た二世だってわかって、それで結構いじめられました」。
戦後すぐ、自分たちの国が負けた相手国から来た少年に、子供たちがどれだけ残酷であったか、想像に難くない。とはいえ、負けてばかりではなく、妻のみどりによると「昔の同級生からの話だと、いじめ返した方が強かったという話です」とのことである。
日英両語に堪能であった松吉は津貫から1時間ほどのところにあった米軍基地で仕事を見つけ、それで生計を立てる暮らしが2、3年続いた。その後、鹿児島で小さなレストランを経営したり、親戚の精油工場を手伝ったりもした後、神戸の知り合いの経営する旅行社で働くことになり、家族で神戸に移っている。敏幸が12歳の時のことだ。
「確か『薩摩館』という名前だったか小さな旅館を併設した旅行社(神戸旅行社)で、アメリカに戻る人たちが手続きの間そこに泊まっていました。その頃、アメリカに帰米する人が増えていたのです」。
『越境者の政治史:アジア太平洋における日本人の移民と植民』(塩出浩之著)によれば、日本降伏後、日本・沖縄からアメリカへと3万人近くの日系アメリカ人が帰国している。敏幸の父はバイリンガルの能力を生かし、そうした「帰米」を手伝ったのである。
その後、松吉は自らの会社を設立。ナイロンストッキングの材料をアメリカから輸入し、それを製品化して販売する会社であった。1950年代初めの日本ではずいぶんとハイカラな商売である。商売は軌道に乗ったようで、松吉は六甲に自らの家を建てている。
一方、敏幸は神戸市立鷹匠中学校を卒業後、神戸商業高校を1956年に卒業。「父には『行きたいのだったら日本で大学に行ってもいいよ』と言われたのですが、僕は自分の生まれたアメリカに帰りたいと思っていたのです。神戸に移ったときには、鹿児島弁でアクセントがあったので、学校の帰りに待ち伏せをくらって喧嘩したり、神戸でも結構いじめられたのです。そういうことがあって、高校生の時にはアメリカに帰りたいと思うようになっていたのです」。
神戸の市内にあったYMCAにいとこと一緒に一年ほど通って英語を学んだあと、日本国籍を放棄してアメリカに戻るという選択をする。
「父にアメリカに行きたいと言ったら、お前は17歳で成人じゃないから、誰かスポンサーがいないといけないと」。幸いコロラド州のデンバーにいる父の友人がスポンサーを引き受けてくれ、17歳の敏幸はアメリカを経由してブラジルに向かう移民船へと乗り込んだ。
「アメリカ生まれのいとこ夫婦と同じ部屋で一緒に行ったんです。その人の妹夫婦がデンバーに暮らしていたのです。日本は貧しかったでしょう。だからいとこたちはそこに行って手伝ったらいいというので渡米しました」。
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