ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/8/17/yokoso-yall/

ようこそ、みなさん

30年前、とてもうれしいことに、私がハパとして継承している二つの文化を紹介するイベントが二つ開かれました。私は、日本人の母と陸軍の職業軍人だった南部紳士の父の娘です。二人は第二次世界大戦後の日本で出会い、結婚しました。

父が軍にいた間、私は両親と一緒に世界中を回り、父の退役後はテネシー州メンフィス郊外の小さな町で育ちました。

1986年のメンフィス・イン・メイ・インターナショナル・フェスティバルでは、大バーベキュー大会や音楽演奏に加えて、日本にちなんだ催しが行われました。また、同じ年の夏にワシントンDCのナショナル・モールで開催されたスミソニアン協会のフェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフでは、テネシーと日本、両方の伝統と文化がたたえられました。

当時私は、テネシー州選出のジム・サッサー上院議員のワシントンオフィスで報道官をしていました。その年のメンフィス・イン・メイにはどうしても行きたかったのですが、その望みはかないませんでした。でも、上司と一緒に行くことができた同僚がお土産を買ってきてくれました。その中に “Yokoso Y’all(南部訛りで「ようこそ、みなさん」)” と書いてあるバッジがありました。私は、“Yokoso(ようこそ)” の意味が分かりませんでした。“Irasshaimase(いらっしゃいませ)” の方が馴染みがありました。“ようこそ” にも “いらっしゃいませ” と同じ歓迎の意味があることを同僚から聞き、母に確認するまで分かりませんでした。そのバッジは、日本と南部の文化を独特に反映していました。二つとも温かくて親しみやすい、魅力的な文化です。

アメリカ南部では、「y’all(みなさん)」という表現をよく使います。時々、「all y’all(みなさんみんな)」という二重複数形を使うこともあります。私の中ではこの言葉は単なるスラングではなく、誰でも受け入れてくれる、包容力のある言葉なのです。

親友のブレンダと私は、いつも自分たちを日本と米国南部のハーフと言っています。ブレンダは看護師で、医療研究機関の仕事でいろんな場所に出張に行きます。ブレンダは私より日本人っぽい顔をしていますが、彼女の南部訛りは地元では違和感なく溶け込んでいて、誰も驚きません。でも、旅に出ると彼女の鼻にかかった南部訛りは、必ずと言っていいほど注目を集めます。

サンフランシスコでブレンダが大勢の同僚のグループと一緒に夕食をとっていた時、とても感じの良いウェイターがロールパンの入ったバスケットを彼女に手渡しました。彼女が「みんなに回しましょうか?」と言うと、ウェイターは目を大きく見開きこう言いました。「あなたからそのアクセントが出てくるとは思いませんでした」。

シカゴでマクドナルドで食べ物をオーダーした時は、レジの人が数分とも感じられるくらい長い間ブレンダをじっと見てこう言いました。「そのアクセント、まったく信じられないよ。素晴らしいね」。また別の時には、これもシカゴでしたが、ブレンダは同僚とホテルに向かって歩いていました。そして小銭を求めてコップを持っていたホームレスの男性の前を通り過ぎた時、彼女の同僚は男性に小銭を渡し、ブレンダはこう言いました。「ごめんなさいね、今持ち合わせの小銭がないの」。男性は、「驚いた!当てさせてくれ。ミシシッピ?アーカンソー?それともアラバマかい?」と言いました。「近いわ。テネシーよ」とブレンダ。「そのアクセントを聞くとは思わなかった」と言う男性に、「スミマセン、エイゴ、デキマセン、って言うと思ったんでしょう」と彼女は答え、二人は笑いました。

それからワシントンDCでは、パン屋を探して歩いていた時、ブレンダはチャイナタウンでアジア系のお客さんと店員が居る店内で、「まだブルーベリータルトは残ってますか?」と尋ねました。すると店の中の全員が一気に固まり、ブレンダをじっと見つめました。そして店員の一人がこう言いました。「チャイナタウンではあなたのような人は珍しい。そういうアクセントの人はね」っと。

時々、私やブレンダの文化背景を誤解する人たちもいます。ブレンダは、デンバーでネイティブ・アメリカンの男性に、「君はどこの部族?」と聞かれて驚いていました。また、長年ワシントンDC近郊で暮らしていた私は、よくラテン系の人からスペイン語で話しかけられました。助けを求められたり、単なる挨拶で声をかけられたり、時間つぶしのおしゃべりがしたくて話しかけられることもありました。幸運にも私は高校と大学でスペイン語の授業を受けていたので、可能な限り役に立てるよう最善を尽くしました。そして、私は日本人のハーフでヒスパニック系ではないことも説明しました。

私が子供だった頃、母は、私が日本語を流暢に話せるよう教えてくれることはありませんでした。彼女の時代や世代、そして移民としての状況がそうさせたのでしょう。母は、私が英語のみを話して育つことが重要だと考えました。母は、私が混乱しないように、と思ったのです。でも、家では家族3人で、日本語の言葉やフレーズをよく使っていました。“タダイマ” や “オカエリ”、“イタダキマス” や “ゴチソウサマ” などです。“ゴハン” には朝食、昼食、夕食の意味があり、母が毎食食べていた、炊いたご飯の意味もありました。

私のハパの友人たち、私たちの父親、そして私自身にとって、母親たちが頻繁に使っていたあまり良い言葉ではない “バカ” も、例外なく馴染み深い言葉です。そしてその意味も、みんな知っています。

母は笑うことも大好きで、日本に一時帰国した際に、日本人の友人たちと駅のプラットフォームで、なぜか母だけがアメリカ人の家族から道を聞かれたというエピソードを話してくれました。母は、その家族がなぜ自分が英語を話せると思ったのか分からず、さらに道を教えた後、その人たちから南部訛りを指摘され、どこから来たのか聞かれた時は “ビックリシタ” と言っていました。

1986年にさかのぼり、私は数日間フェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフに参加し、アパラチア地方と日本の工芸の実演や、カントリー音楽や太鼓の演奏、伝統的な和食や南部料理を楽しみました。日本の物が売っている売店があり、子供の頃の楽しみだった飴やキャラメルを自分用に購入し、ダルマを買って母に送りました。

幸運なことに、私は母と一緒に2度日本を旅する機会に恵まれました。1974年の夏、10代の頃に3か月と1996年秋、大人になってから3週間、日本を訪れました。いずれの旅も大きな学びの機会になりました。家族や母の友人たちと会い、日本の歴史、伝統、文化について学びました。ダルマのことを知ったのは、最初の旅でした。ダルマは丸い張り子の人形で、希望や目標をかなえ、幸運をもたらしてくれます。転びにくい形状の人形で、忍耐、つまり、ガマンを象徴しています。購入時は、ダルマの目は塗られていません。希望や目標を定めた時に左目を塗り、右目はその希望や目標がかなえられた時に塗るのです。母が自分の願いを込められるように、私はダルマを送りました。

私は、生まれつき左目が見えません。未熟児網膜症という治癒できない病気です。1950年代前半から60年代、未熟児用保育器の過剰な酸素量が、大勢の赤ちゃんの視力を奪いました。1986年秋には、見えていた方の右目が白内障と診断されました。1989年には、視力を戻すため、リスクを負ってでも白内障の除去手術をする時だと医師に最終判断されました。3年間で私の視力は徐々に低下していったのです。眼内レンズ挿入術は今でこそ一般的な手術ですが、1989年当時28歳だった私は、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス病院のウィルマ―眼科研究所では、この手術を受ける最年少患者の一人でした。

手術は成功しました。私と両親はとても喜び、安堵しました。棚の上のダルマの目が塗られていたことは、その年の後半に帰省するまで気付きませんでした。私は母に、どんな願いがかなったのか尋ねました。母は、私がまた見えるようになることを祈っていたと言いました。母は、「ホントウニ、ヨカッタネ。とてもうれしいわ」と言いました。

“ヒサシブリ” は、私が好きな日本語の一つです。この言葉は、2回目に母と日本を訪れた旅で学びました。母は、友人や家族との数年振りの再会の場で、元気いっぱいに上機嫌でこの言葉を繰り返していました。私の中では、ヒサシブリという言葉には、あらゆる意味の幸せが詰まっています。

あの時のメンフィス・イン・メイやスミソニアン協会のフェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフは、ある意味私にとって、素敵なお祝いのギフトでした。私が二つの文化を継承していることや、この比類ないアメリカ人としての人生に感謝する機会になりました。“ヒサシブリ” でも “hey, y’all(みなさん、こんにちは)”でも、単純な挨拶の言葉は、家族や友情、コミュニティの結束を強くしてくれます。もてなしの心という世界共通語は、時代や文化的分断を橋渡ししてくれます。“ようこそ、みなさん” バッジは、二つの文化を継承している私に、橋渡しの役割があることを思い出させてくれるのです。

 

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このエッセイは、「ニッケイ語」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが編集委員のコメントです。

ギル・アサカワさんからのコメント

投稿作品はいずれも本当によく書かれていて感動しましたが、私のお気に入りは『ようこそ、みなさん (Yokoso Y’all) 』でした。この作品の私的な会話調の表現や率直さに引かれて一票を投じました。作品のタイトルは、リンダ・クーパーさんが言わんとしている核心部分の全てを物語っており、私はタイトルからこの作品が好きになりました。

私の妻のいとこはアトランタに住んでいます。(私も少年時代の『素晴らしき日々』をヴァージニアで過ごしました。)間延びした南部特有のアクセントで日系人が話すと――もっとも、なぜそれがそんなに驚くようなことなのか、私にはよく分かりませんが――いつも驚きを持って受け止められます。

また、多人種が混在するクーパーさんの経験や、ラテン系に間違われたこと、彼女の友人がネイティブ・アメリカンに間違われたという異文化間のエピソードを見つめている点でも、私はこの作品を気に入ってます。

クーパーさんがご自身の人生の精神を捉え、それを惜しみなく共有してくださったことに敬意を表します。

パトリシア・ワキダさんからのコメント

多くのニッケイの人々にとって、日本語の言葉は移住先の国の言語の中に根付いています。私は、言語がどのように流動的に、そして楽しく交配し得るかを描いた『ようこそ、みなさん』が大好きです。作者のリンダ・クーパーさんは、陽気なエピソードを通し、魅力的な物語を紡ぎました。それは、日系のルーツがいかに彼女の人生の複雑さに奥行きを与え、日本語と英語のスラングやフレーズを独特に組み合わせた日本とアメリカ南部、両方の文化が、どのように深く彼女のアイデンティティを形成したか、というものでした。クーパーさんの声は紛れもなく彼女自身のものです。そしてそれは、『ニッケイ語』に焦点をあてたニッケイ物語シリーズでは特に意義深いことです。なぜなら、ここで重視されているのは、まさに言葉だからです。

 

© 2016 Linda Cooper

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このシリーズについて

「アリガトウ」「バカ」「スシ」「ベンジョ」「ショウユ」・・・このような単語を、どのくらいの頻度で使っていますか? 2010年に実施した非公式アンケートによると、南カリフォルニア在住の日系アメリカ人が一番よく使う日本語がこの5つだそうです。

世界中の日系人コミュニティで、日本語は先祖の文化、または受け継がれてきた文化の象徴となっています。日本語は移住先の地域の言語と混ぜて使われることが多く、混成言語でのコミュニケーションが生まれています。

このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

お気に入り作品はこちらです!

  編集委員によるお気に入り作品:

  • ポルトガル語:
    ガイジン 
    ヘリエテ・セツコ・シマブクロ・タケダ(著)

  ニマ会によるお気に入り作品:

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執筆者について

コミュニケーション・コンサルタント兼フリーランス・ライター。広報、米国上院議員担当報道官、ジャーナリストとして30年以上の経験を持つ。ミシシッピ女子大学でジャーナリズムと政治学を専攻し、文学士を取得。テネシー在住。親友のブレンダは医療研究機関に勤める公認看護師で、家族の近くで暮らしている。


(2017年9月 更新)

 

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