「ノーノー・ボーイ」の著者、ジョン・オカダとはどのような人物なのか。プロフェッショナルな作家として有名だったわけではなく、彼について残された記録は多くはない。
その経歴については、ルース・オゼキによる新版の序文のほか、昨年出版された「Art, Literature, and the Japanese American Internment: On John Okada's No-No Boy」(Thomas Girst 著)に詳しい。これらをもとに、オカダの人生をたどってみる。
ジョン・オカダは、1923(大正12)年9月23日、シアトルの中心部、パイオニアスクエアのマーチャント・ホテルの一室で、父、岡田善登(フレッド・オカダ)、母、孝代の次男として生まれる。
善登は1894年広島県安佐郡可部町出身、1908年に先に渡米していた父に呼ばれ渡米。モンタナ州で鉄道労働、シアトルで古屋商店員として働くなどして金を貯めていったん帰国し、孝代と結婚してアメリカに戻ってきた。
1920年にホテル業をはじめるなど、オカダ家は市内で庶民的なホテルをいくつも経営していた。ジョンは、地元のBailey Gatxert 小学校を出て、Broadway High Schoolに通った。成績は優秀で運動のセンスもあった。
収容所を経て、軍に志願
シアトルのワシントン大学に進み、小説や脚本づくりの授業などをとり、英文学に関心を示していたという。戦争がはじまってしばらくした1942年、大学2年のとき、オカダ家は、西海岸で一斉にはじまったアメリカ政府の日系人に対する隔離・収容政策の一環で他の日系人同様、シアトル郊外のピュアラップ集合所に収容される。その後アイダホ州の砂漠の地、ミニドカにある収容所へ送られた。
収容所にいる間、ジョンはネブラスカ州のリンカーンにある短大に通うことを許された。そこで軍に志願をする。まずミネソタ州キャンプ・サベージのMIS=Military Intelligence Service(陸軍情報部)で、日本語通訳のための訓練を受け、その後フロリダ州ジャクソンビルで基礎訓練をさらに受けてから空軍の警備隊の一員に任命された。
グアムを本拠地とするこの部隊は、日本の制空権内で偵察飛行をし、ジョンは通訳として南太平洋上で、日本軍の戦闘機などと地上基地との交信を傍受してこれを英語に訳す任務にあたった。
終戦後は、占領軍の通訳として5ヵ月任務につき、一時は日本にも滞在した。1946年にシアトルに戻り、ワシントン大学に復学し文学士を得る。その後ニューヨークのコロンビア大学のティーチャーズ・カレッジに学び修士となる。このとき、ハワイ出身の日系二世のドロシー・アラカワと出会い結婚、のちに一男一女をもうける。
転職と引っ越しを重ねる
このあと再びシアトルに戻り、ワシントン大学で図書館学を学び、同時にシアトルの公立図書館でドリス・ミッチェルのアシスタントとして働きはじめた。1952年か53年には、よりよい仕事を求めて家族ともどもデトロイトに移り、デトロイト公立図書館で職を得た。シアトルの交友関係をあえて断ち、創作のための準備をするのも移動の理由と思われる。
数年後、今度はデトロイトから400マイル離れたイリノイ州スターリング・タウンシップというところにあるクライスラー社の弾道ミサイル部のテクニカル・ライターとなった。数年後の1956年には西海岸へ戻り、ロサンゼルスの南西20マイルのところにあるヒューズ航空機社のテクニカルライターとして働きはじめる。「ノーノー・ボーイ」の執筆にあたったのはこのころだ。
1960年代半ばには、広告会社でコピーを書く仕事をしようとしたり、UCLAの図書館で短期的に働いたりした。最終的には、アナログ・テクノロジーという宇宙産業関係の小さなメーカーの出版マネジャーの職に就いた。そして64年までには、ロサンゼルスの東にあるサウス・サンガブリエルに自宅を購入した。
ここで妻と二人の子どもと暮らしていたが、1971年2月20日、自宅で心臓発作のため亡くなり47歳の生涯を閉じる。葬儀はロサンゼルスで行われ、その数ヵ月後に生まれ故郷のシアトルで荼毘にふされ、多くの日系人の墓もあるワシャリという墓地に埋葬された。
(敬称略)
© 2016 Ryusuke Kawai