1979年、中山容氏が翻訳
小説「ノーノー・ボーイ」がアメリカで復刊されたのが1976年。それから3年後の1979年3月、日本語で翻訳が出版された。出版社は海外の文芸作品の翻訳など個性的な作品を手がける晶文社(東京都千代田区)で、中山容氏が翻訳を手掛けた。
翻訳のタイトルは「ノー・ノー・ボーイ」と表記され、「時は1945年、徴兵を拒否して二年間の刑務所ぐらしを終えて、故郷のシアトルに戻ってきたイチロー。自らの生き方を求めて激しく悩み、傷つきながら彷徨する魂の姿を、叩きつけるようなリズムで描き切った、日系アメリカ人二世による白眉の青春小説」という紹介文が添えられた。
訳者、中山氏のプロフィール(当時)は以下のようになっている。
1931年東京生まれ。明治学院大学英文科、国際キリスト教大学修士課程・視聴覚教育専攻。現在京都平安女学院短大教授。訳書―『ボブ・ディラン全詩集』(晶文社、共訳)『ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ詩集』(国文社、共訳)『ローレンス・ファリンゲティ詩集』(思潮社、共訳)ほかにフォークソングの訳詩もある。
中山氏は、アメリカのフォークソングの紹介を行うなどし関西フォークにも影響を与え、自らの詩作のほかビート詩人の翻訳や詩の朗読を行うなどの文化活動を積極的に行った。また、アジア系アメリカ文学の研究や紹介に携わった。
後にピューリッツァー賞を受賞するスタッズ・ターケルの『よい戦争』(晶文社)の翻訳を手がけたり『ボブ・ディラン全詩302篇』(晶文社)を片桐ユズル氏と共訳で出版したりしている。京都精華大学で学部長もつとめ1997年に亡くなった。
京都・ほんやら洞で“発見”
日本語版の最後で中山氏は、「訳者メモ」として復刊された英語版との出会いを次のように書いている。
私が、この再版本の『ノー・ノー・ボーイ』をみたのは、京都「ほんやら洞」の二階で、そのときは、そこで働いている日系三世のミドリさんの持ちものかとおもった。実際には一九七六年に中尾ハジメさんがシアトルからもちかえったらしい。でもハジメさんもミドリさんもまだ読んでなかった。私は、読みだしたら、やめられなくなった。読んでいくうちに、登場人物やその暮らし方が自分のこども時代とダブってるなっておもった。・・・
ここにあるほんやら洞とは、京都市出町柳の喫茶店で、1972年にフォークシンガーの岡林信康さんなどが資金を出し合って開業した。音楽ライブや詩の朗読会なども開かれたこの店に、中山氏も詩の朗読会をするなどし頻繁に出入りしていた。
ライブなどが行われた2階のスペースで中山氏は「No-No Boy」と出合ったわけだが、中尾ハジメさんは社会心理学者で、ミドリさんというのは、日本でも大ヒットした映画『ベスト・キッド』シリーズで空手の師匠役をつとめたパット・モリタ氏の娘だ。ほんやら洞は、初期から運営に関わっていた写真家の甲斐扶佐義が続けてきたが、2015年1月火災によって建物が全焼した。
日本語版は累計9000部
晶文社で出版された経緯については、当時晶文社にいた津野海太郎氏(和光大学名誉教授)と中山氏が親交があったためだ。日本語版の表紙カバーは、1957年の初版の強烈なイメージとは違い、また復刊の表紙の抽象的なイメージともまったく違ったものだった。
かつてシアトルの日本町にあった日本人が経営するグロサリーストアの店構えのような絵が描かれている。それは小説に登場する主人公イチローの両親が営む店をまさにほうふつさせるものだった。
ブックデザインを担当したのは平野甲賀氏で、彼が安久利徳氏に表紙の絵を描いてもらったのだった。イチローの内面の葛藤といった小説の中心テーマを表象するのではなく、日系アメリカ人を包む現地のエキゾチックな雰囲気が立ち上ってくるようなデザインだ。
晶文社によれば、日本語版の初刷り(1979年3月30日)は2500部で、その後細かく版を重ねて94年に8刷りとなり、このとき累計7500部となった。その後しばらく増刷はなかった。2002年に久しぶりに9刷りとして500部がリクエスト復刊として増刷された。が、これが最後になった。
いま、日本語版「ノー・ノー・ボーイ」は古本屋で手に入れるか図書館で探す以外に日本語で読むことはできなくなっている。
© 2016 Ryusuke Kawai