第10回 オレゴン州の日系人~その1を読む>>
カリフォルニア州とワシントン州の間に位置するオレゴン州。漢字では央州とも記すオレゴン州の日本人移民もまた、白人社会からの排日運動や攻撃を受けてきた。「百年史」では、排日の歴史を時代をわけてまとめている。概要は以下のとおりである。
初期の動きとしては、1910年に日本人による農業が盛んだったフッドリバー地方でアジア人排斥協会が設立され、新聞や演説で排日運動が展開された。排日関係の法案も州議会に提出され、最終的には議決された。
トレド市で、排日暴動事件
1925年には太平洋岸のトレド(Toredo)市で排日の暴力的な一大事件が起きた。
「二〇〇名に及ぶ暴徒は米国旗を先頭に押立て央州トレド市太平洋スプルース製材会社工場に勤労中の邦人キャンプを襲い、予め不穏の挙のある事を察知し会社より配置した五名の護衛人に重軽傷をおわせ、狂暴の一団は屋内に乱入し、日本人に即時退去を強請し、自動車に乗せ、鉄道の便宜ある地点へ誘拐放逐した。日本人の男子二五名婦人二名、外に比人四名、合計三一名は不法行為の犠牲となったのである」
製材会社への日本人の雇用に異議を唱えてのことだった。
これに対して、央州日本人会は、州知事に暴徒側による悪宣伝の是正を求める書簡を送った。また、日本政府にも事実を報告し適正な措置を求めた。さらに、被害者四人が損害賠償を求め訴訟を起こした。栽培所はこれを認め、2500ドルの損害賠償金を支払うよう命じた。
戦争間近になると、日米通商条約破棄が日本人の事業に不安を与え、日本人一世が経営する各種事業は、できるだけ米国市民となった二世に継承させる方策がとられた。
戦後、日系の復活が遅れたポートランド
戦前は1680人の日系人がいて、商業、宗教、教育、ジャーナリズムなど日系の活動が盛んだったポートランド市だが、戦争直後、日系社会は極端に縮小した。
「戦後の復活頗る遅々たるものあって誠に一抹の悲哀を感じせしめられるものだった」
理由は、市政が日系人に辛くあたったため、かつての事業の再開がむずかしくなり、帰還する者が激減したためといわれる。
また、コロンビア川の堤防決壊により日系人が密集するヴァンポート市が被害を受け、日系人は財産を失い、犠牲者が出たことも影響した。
「強制立退きに依る物心両面の大損害を蒙り、転住所三年有半の生活に所持金の大半を消費し、漸く法令の解除と共に勇躍古巣に帰還すれば、排日的市政の苦難に事業の着手も捗々しく進まぬ処へ、天から降って湧いたような此の大災難に遭遇したポートランド帰還者こそ、実に『泣き面に蜂』の二重の苦境に陥って居た。…」
しかし、この後徐々に日系社会は再び発展してきた。1950年のポートランド市の人口は、約460人だったのが、1960年には約1990人となっている。
「数奇な一生」と紹介された日本人
百年史・オレゴン州の章でも、オレゴン在住の多くの日本人、日系人個人について紹介している。「農業」、「アパート業」、「グロッサリー業」、「婦人服の元祖」など、肩書きはさまざまだが、そのなかで一風変わって「数奇な一生の」というタイトルで紹介されている日本人がいた。京都府中郡峰山町出身の藤原順次氏である。
なるほど、書かれた彼の人生をたどると数奇である。以下、かいつまんで紹介しよう。
峰山町というのは、京都府の北部、丹後半島中央のまちで、丹後ちりめんの事業が盛んなところである。1888年に峰山で生まれた藤原氏は、徴兵で陸軍に入り、その後1907年に結婚、一女をもうけたのち25歳で朝鮮半島にわたる。
その後、弟の製造するちりめん織物を行商しながら、台湾、フィリピン、上海、マカオ、アモイ、スワトウ、香港を経てオーストラリアのシドニーをまわる。1915年、香港から渡米しようとイギリス船に乗り込み、ニューヨークへ着いた。
そこからニュージャージー、メイン、ワシントンDC、ボストンなどの東部一帯でアメリカ人家庭で働いたり、コックをしたりと、さまざまな仕事をして、シカゴに入った。1922年にオレゴン州に来て、アストリア、ウェストポートの製材所で働いた後、13年ぶりに日本に帰国。
1924年に妻子を連れて再び渡米すると、ポートランドでクリーニング業をはじめた。その後ホテル業を営むがここで戦争となり、アイダホ州のミニドカ収容所に入る。戦後帰還するとホテル業をはじめ、1956年に引退して、ポートランド南のミルウォーキー市で余生を送る。
郷里の峰山町には200万円余の公民館を寄付、夫婦ともに帰郷した際には町民挙げての大歓迎を受けたという。子どもは一男三女。孫が10人で曽孫も3人という。数奇というか、盛りだくさんな人生である。
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
* 次回は「アイダホ州の日系人」です。
© 2014 Ryusuke Kawai