太平洋岸のオレゴン州は、北はシアトルやタコマのあるワシントン州、南はサンフランシスコ、ロサンゼルスのあるカリフォルニア州の間に位置する。漢字で表わせば、カリフォルニアが「加州」と表記されるのに対し、ワシントン州は「華州」、さらにオレゴンは「央州」と表わされているが、これはほとんど知られていないのではないか。
こうしたアメリカの地名の漢字表記は、日本でも今は使われることはなく、日系人のなかでも理解されないことを考えると、一世、二世の日系人をとりまく独自な文化として忘れられていくかもしれない。
漂着した日本漁船員が最初の日本人
さて、「米國日系人百年史」では、第四章オレゴン州として40ページを割いている。まずオレゴン州の概説からはじまり、その歴史、地理的な環境などを記す。
1805年末にルイス、クラークの探検隊がコロンビア川を下り大陸横断探検旅行に成功し、ロッキー山脈西方に白人進出の基地を建てたという。
「南北に走るキャスケード連山は、央州の気候風土を東西に二分し、西部の三分の一は雨季永く四季緑に蔽われるが、東部の三分の二は全く乾燥の大陸地帯」。
主要都市のポートランドに市制が布かれたのは1851年で、1860年の人口はわずか2874人だった。
「第一節 戦前の央州日本人発展」では、日本人の足跡からはじまる。
「1834年頃、一日本漁船が太平洋を漂流し、黒潮に押されて央州マーシフィールド附近に漂着した。存命者三名の一人鈴木金蔵という者が、当時オレゴン領であったバンクーヴァに来たのが最初の日本人であった」
「又、明治初年に石川久作という者が南部より来て、ポートランド市に居住した事実がある」
「1880年の秋アンドリュ・マッケノンという一米人、岩手県、青森県に於ける農事指導係を辞職し、妻岩越ミヨ、その弟力造及娘タマを伴い帰米し、後ちポートランドを距る東方十三哩のグレシャム町の東方二哩の地にトレ・ソーミル工場を創設した。その命名によるオリエンタルの地名は現に残り遺族は現に同地に農業に従事し、先住の第一人者として尊敬を払われている」
日本人移民が初めてポートランド港に到着したのは、1891年春で、一行は岡山県人坪井喜代治ほか6人。二回目は和歌山県人16人だったという。右も左もわからず困難な目に遭い、「ある時は橋の下で日本人が泣いてるという急報があった」という。
鉄道労働が栄え、日本人の町ができる
当時のポートランドあたりの日本人は主として薪割り労働やホップの摘み取りなどをしていた。このほか、鉄道保線の工夫としてユニオン・パシフィック鉄道で働いた。その後、大陸横断鉄道の開通にともない、鉄道労働者として力を発揮していった。これを経て農業などに転じていった。
「鉄道労働の黄金時代は1897年より10年間で、一時央州各鉄道の日本人労働者は三千人近く、・・・」、「央州各地に於ける農園を始めとして、市内各事業の基盤は、概ね鉄道労働に従事し寒暑と闘い脂汗に代えて蓄積した労銀の結晶であると言える」。
1906年にはポートランド市でルイス、クラーク央州探検百年記念として、万国博覧会が開かれた。市内の日本人の事業は発展し、旅館、レストラン、飲食店、理髪店、食料品店、雑貨店などが激増して繁盛した。開戦前の1940年当時、ポートランドでは約120の旅館や80余のグロッサリー店が日本人によって経営されていた。
農業経営も広がり、果物、野菜、イチゴ、ホップなどの栽培で、1940年で日本人の農家はオレゴン州で343、農園は、合計11,247エーカーとなっていた。
1935年11月の調査で、オレゴン州全体での日本人の人口は、4376人でこのうち、ポートランドに1501人が暮らしていた。全体で日本国籍保有者は3368人となっている。
日本語の新聞なども盛況で、その草分けは、1900年に牛島英太郎、川尻慶太郎の二人による「ヂャパニカ・ポートランダ」だった。日刊央州日報は戦前に34年の歴史をもつ。このほか文芸雑誌「大衆」から改称した「週刊紙コースト時報」や、州外の邦人紙の支社もあった。
(注:敬称略、引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
© 2014 Ryusuke Kawai