第8回「南部加州の日系人 ~ その4」を読む >>
各州別に日系人の足跡を紹介している米國日系人百年史を、これまでカリフォルニア州のページから眺めてきた。北部加州(北カリフォルニア)で1回、南部加州(南カリフォルニア)は4回にわたって紹介した。カリフォルニアの最後は、フレスノ(Fresno)をはじめとする中部加州(Central California)の日系人についてのおよそ60ページを読んでいきたい。
百年史は各地の地理についても詳しく記している。中部加州については、「中部加州とは、(略)コーストレンジ沿岸山脈とシエラネバダ山脈の中間に位置し東西約五十哩、南北約二百哩に及ぶ大平原で、マデラ、フレスノ、キングス、ツラレ、カーン五郡から成り、フレスノ市は中部加州の首都とも称すべき農業中心都市である」。
「シエラ山脈及びヨセミテより水源を発する幾つかの河川は、農地利用灌漑により中加の大平原は年々飛躍的に開墾され、葡萄、綿花、柑橘類その他果物及び野菜等あらゆる農産物を生産、東部の市場に輸送され、また中加の特産物レーズンのごときは全世界に輸出、世界のすみずみに至るまでその美味と品質は賞賛されている」。
この地にやってきた多くの日本人も、多くがこうした農業に従事した。中部加州の人口は、1959年度の調査で約95万人、そのうち日系人は約1万4000人とある。
フレスノ市に最初に日本人が入り込んだのは1880年頃で、当時東京市に雇われた後帰国したアメリカ人が、中山実円、佐々島多忠の2人を従僕として連れてきた。フレスノ市に日本人が多く入ってきたのは、「仏教会開教師が土地の所有を勧め、永住の基礎を立つべく土地会社まで起こした」ことが大きいという。
ミスター・フレスノ
このフレスノで「ミスター・フレスノ」に選ばれたという人物が坂本節吾だ。1884年広島県安佐郡の出身で、15歳のときワシントン州のタコマに上陸し、サクラメントで働きながら英語を習得し、1909年にはフレスノで食料雑貨店を開業し、その後さまざまな事業を起こした。
彼の功績は、日系人のために合法的土地所有の先例を作るなどし、中部加州での日系人土地所有権の維持などに大きな役割を果たしたことだ。また、開戦前にフレスノ日本人会長に就任、開戦後は「ゲアハート下院議員を通じて大統領に宛て忠誠を誓う旨を打電、全米にラジオ放送され、また対日宣戦布告緊急議会にも発表され満場の拍手を受けた。坂本氏の勇気ある善処によりフレスノ日会幹部からは一人も抑留者を出さなかった功績を残している」と、紹介されている。
開戦直後の巡査殴打事件
開戦時、フレスノでの混乱は比較的少なかったが、立ち退きをめぐって日系人に大きな衝撃が走ったことがあった。「1942年2月に入って太平洋岸日系人総立退き令が出た時、当初中部加州を縦貫するハイウェー第99号の東側がホワイト・ゾーン(非立退地区)と発表されたにもかかわらず、同地区へ各地立退区域から多勢がドッと押しかけたため、地元米人を刺激し、後ち同地域も立退区域になり、安心していた同地域日系人も一時大動揺を来す・・・」。
この時の混乱ぶりなどについて、百年史では、1947年に日米時事フレスノ支社が、有力日系人たちによる座談会を記事にしたものを再録している。急な立ち退き前後の混乱が語られているが、そのなかに巡査殴打事件があった。巡査とは警察官のことと思われるが、外部から来た日本人青年3人がデルレーの日本人タウンで一人の巡査と口論の末、巡査を殴って手錠とピストルを奪って逃げたという事件だった。このため日本人たちが謝罪として825ドルを集めて巡査に送ったという。
このほか、立ち退きによって、400余の遺骨を移動させるため、大急ぎでフレスノの墓地に納骨堂を建てて保管したことが語られている。
戦後は、淋しい一世?
話題は、戦後の日系人家庭のことなどにも及んでいる。一世と二世について以下のような興味深い発言がある。
「最早在米同胞の社会は二世の時代で一般の生活様式が変って来る事は喜ばしいことですが、どうも一世は淋しい気がします、まだ表面化はしませんが家庭のツラブル(trouble)も相当潜んでいるのではないかと思われます」(宮本)
「一世の気持ちのすっかり変った原因は戦争の結果で、戦前は日本本位だった生活が戦後はアメリカ本位に土着した為だと信じます。その上戦後は親族や友人が全米に散在しているため日本人の考え方も全米的になったと言えます」(三上)
中部加州のなかでサクラメント方面によったマデラ郡には、リビングストンのまちに、日系の移民史のなかでも有名な「大和コロニー」がある。1910年に安孫子久太郎が開いた、日本人入植者の村である。近くのコーテズにも同様のコロニーができた。農業組合をつくって発展してきたコロニーの事業についても細かく記されている。
(注:敬称略、引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
© 2014 Ryusuke Kawai