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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ — その3

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フィッシャーに重用された後に独立

約4年間働いた後、重三氏は独立して兄の長太郎氏とマイアミビーチ市内で園芸・造園のための「Miami Beach Nurseries」という“店”を開いた。「Nurseries」というのは、植物を育てて管理しそれを販売するという業種だ。まもなくして長太郎氏は日本に帰国し重三氏が事業を切り盛りした。

水車で海水を汲み上げた Roman Pools(1920年ごろ)(写真提供:田代氏)

「日本に帰ることがあったとき、フィッシャー自身が重三のために紹介状を書いてくれたんです。いまでもそれは取ってあります」と、ジョーさんが保管していた手紙を見せてくれた。

フィーシャーの自署があるタイプされた手紙は、1920年5月10日付。そこには、「彼は非常に能力があるばかりでなく、あらゆる点で正直で信頼できる人物である。彼がわれわれの造園事業に素晴らしい結果をもたらしてくれた」と、絶賛している。

そして最後に、「彼のこれまでの給与は月に115ドル」だったことを記している。1920(大正9)年に月給115ドルは、かなりの高額だった。これらを見ても明らかなように、彼はフィッシャーの信頼が厚く会社への貢献も大きかったようだ。

マイアミビーチ市内では、住宅開発が続き富裕層が集まり、造園の仕事は順調に推移した。当時店の前で撮影された写真を見ると、木々の前で大きな自家用車(プリモス)と一緒にスーツやワンピース姿のきちっとした身なりをした家族が並んでいる。毎年家族そろって旅行にも出かけていたという。

店の前での田代家の家族(写真提供:田代氏)


ヴァンダービルト家の仕事も請け負う

田代家では数多くの豪邸の仕事も請け負ったが、なかで最も大きな事業は、米国の富豪ヴァンダービルト家の一員であるウィリアム・ヴァンダービルトの所有地だった。

ここはフィッシャーアイランドというマイアミビーチのなかで独立した島で、一時はフィッシャーの持ち物だったが、ヴァンダービルトが所有する豪華ヨットと交換したというエピソードがある。

田代家の造園事業は1929年の大恐慌を乗り越え続いた。戦時中は一時米軍がマイアミビーチに駐留したが、西海岸のように日本人、日系人に対する隔離などはなく、田代家は一定の規制の下に市内に留まることを許された。

戦後も事業を継続し、大学を卒業後にはジョーさんが父親の事業を継ぎ54年まで続けた。
「同業者もだんだん増えてきたし、この仕事は休みがほとんどなく、別のこともやってみたかった」と、ジョーさんは振り返る。

ジョーさんは日本の物産を販売する仕事などをし、最後は「The National Oceanic and Atmospheric Administration (NOAA)」という海洋と大気の研究などをする国の研究機関で働いた。かつての「Nurseries」は、その後市に売却されいまでは公園などに形を変えている。

一方、須藤氏もフィッシャーのところで働いた後、独立して造園業を営み、同市の緑化にも貢献した。社交的で地域の有力者との交流も深いまさ子夫人の功績もあり、彼の存在は広く知られるようになった。

1953年に全米での生活を切り上げ日本へ帰国、郷里へ戻るが、「すべては予期に反し完全に幻滅を感じ、半年足らずで蒼惶として再びフロリダへ帰った」(「同百年史」より)。しかし、フロリダへ帰ってきたのがニュースとなり、その後彼の話は、「須藤幸太郎物語」として、米国でテレビ映画として放映された。


ハリケーンと大恐慌

最後に、フィッシャーはというと、マイアミビーチでの事業は成功を収めたのちさらにニューヨーク州のロングアイランドのモントーク岬で、マイアミビーチで行ったようなリゾート開発を手がけた。

しかし、この後の1926年、フロリダを大ハリケーンが襲った。その上29年には歴史的な大恐慌が起こり、フロリダの土地バブルは崩壊し彼は財産を失った。しかし、マイアミビーチでは親しまれ39年に65歳で他界した。

マイアミビーチ自体も変わってきた。かつては人種差別が激しく黒人はもとよりユダヤ人が居住することへも反対があった。それも徐々に変化しユダヤ人の移住者が多くなり、いまではヒスパニック系の住人が増えている。

そのなかで日系人の数は少ない。が、このいかにも米国的なリゾートの誕生に日本人、日系人が関わっていたことは紛れもない事実で、“東洋のマイアミ”というとき、そのモデルとなったマイアミビーチは実は東洋人の力もあったという史実は、日本側から改めてなぞってみれば“灯台もと暗し”といった不思議な物語でもある。

(敬称一部略。当時の写真は、すべて田代氏の提供)

 

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年8月7日掲載)からの転載です。

 

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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