ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2013/11/15/5090/

マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ — その2

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実業家、カール・フィッシャーの下で

遅れたフロンティアであるフロリダがアメリカ合衆国の1州に加わったのが1845年。アメリカインディアンが暮らす一部を除いて、この州の南部はほぼ未開で、無人島だったマイアミビーチもこのころから農園の開発が行われた。

1896年に北から延びた鉄道がマイアミまで敷かれると、避寒地として人気を集めたこの地にはホテルが立ち並び、マイアミビーチでも不動産の開発が始まる。この事業に乗り出したなかで最も有名な人物がカール・フィッシャーだった。

中西部インディアナポリス出身の彼は、さまざまな事業を手掛け有名なインディアナポリスのカーレースの発展にも投資、貢献、アメリカを横断する高速道路の建設も実現した実業家だ。1910年にバケーションでマイアミを訪れたのをきっかけに、マイアミビーチの開発に乗り出した。

土地を取得し木々を根こそぎ伐採し整地、その一方で浚渫による土砂を利用して土地をならし宅地として分譲。並行して道路を造りホテルを建設した。彼が目指したのは、富裕層のためのリゾート建設で、島を横切る通りには椰子の木を植えて、高級ショッピング街を造った。

開発に伴う土地の売買が盛んになり、フロリダの最初の土地ブームが起きたのもこのころである。1時間のうちに土地の値段が変わっていくこともあったという。

1920年には1000人しかいかなかったマイアミビーチは、5年後には5000人近くに増えた。こうしてほとんど何もなかった島は、白人の富裕層が中心となった住宅地やリゾートに形を変え世界的に知られるようになった。

この初期の開発で、カール・フィッシャーの下で働いていたのが田代と須藤の両氏だった。造園の技術を生かして、開発から緑化などの環境整備に力を発揮した。ワニをはじめとした野生動物が生息し、蚊などの虫も無数に飛び交う中でのきつい仕事でもあったようだ。

自然のままの木を伐採したのち整地をする(1920年ごろ)(写真提供:田代氏)


数少ないフロリダの日本人


1910年代、すでに米国には西海岸をはじめとして多くの日本人移民が暮らしていたが、そのうちフロリダにいる日本人は百数十人だったと推測される。

マイアミから北に70キロほどにできた日本人のコロニーを別にすれば、多くは西海岸などを経由して移ってきたようだ。

では、田代、須藤の両氏はどのようにしてマイアミビーチに来たのだろうか。2人の足跡と業績については、『米国日系人百年史』(1961年、新日米新聞社刊)のなかの「各州日系人発展史・フロリダ州」の項目に記載がある。

この本は、ロサンゼルスにあった邦人紙・新日米新聞社が日米修好100年祭記念として出版したもので、主に西海岸を中心にそれまでの日系人の足跡をまとめている労作である。全米各州の日系人・日本人を訪ね歩くなどして紹介する個人の歴史の集積は他に類を見ない。

しかし、逆に本書のほかに日系人の足跡を全体的にまとめているものはなく、また、日本国内では、海外に出た郷土の人間について史実として残しているものは少ない。

したがって、事実を本書だけに頼らざるを得ないところがあるので、できればマイアミビーチの2人について、実際にその家族など関係者から話を聞いてみたいと思っていたところ、マイアミ在住で長らく貿易の仕事に携わる尾崎賢助氏から、田代氏の子息がマイアミの北、ノース・マイアミビーチに暮らしていることを教えられた。

尾崎氏の計らいで話をうかがうことになり、6月末、マイアミの北のお宅を訪ねた。造園関係の仕事をされていただけあってか、庭には大きな実をつけたマンゴーの木などが茂っていた。

そこで暮らしているのは、田代重三氏の次男のジョーさん(85)と妻の洋子さん(74)夫妻だった。当時の写真や資料をもとに、夫妻が重三氏の仕事やカール・フィッシャーについて話を聞かせてくれた。


実家の借金を返済しようと渡米

ジョー・タシロ、洋子夫妻(自宅の庭で)

重三氏の実家は、神奈川県足柄上郡南足柄村(現南足柄市)で、養蚕業を営んでいた。しかし、父準太郎氏が事業を広げようとして失敗し、当時多額の負債を抱えてしまったという。

「日本でそれを取り戻すには一生かかる、それならアメリカで稼いでこよう」と、当時19歳の重三と21歳の兄・長太郎の2人が、1899年サンフランシスコに渡った。洋子さんはこの長太郎の孫にあたる。

米国に着いてからは、兄弟は農作業をはじめ鉄道工夫や造園などさまざまな仕事をこなしてきた。こうして貯めたお金で1年経たないうちに日本での負債を返済した。

あるとき重三氏は、新聞広告でマイアミビーチ開発に伴って人材を募集しているのを知り、手紙を書いて応募したところ採用され、1916年にカール・フィッシャーの下で働くようになった。のちにサンフラシスコにいた知人の須藤氏にも声をかけて、彼もまたマイアミビーチで働くことになった。

土地をならし、海を浚渫し土砂を盛るなど整地をし、そこにホテルやポロ競技場やゴルフコース、住宅地などを造っていった。重三氏は、のちにフィッシャーが経営する不動産会社の造園の責任者の職に就いた。

「とにかく、マングローブの木を伐採して整地するのが大変だったと聞いています」と、洋子さんが言い、マングローブの原生林やその後の整地作業を行う当時の写真を見せてくれた。そこは木々と原野の広がる一帯で、今日のマイアミビーチからは想像できない殺風景なところだった。

「スクラブ・パーム(scrub palm)というそれほど背の高くない木を根から掘り返すのが大変で、ブルドーザーで整地をしていったようです」と、ジョーさんがあとで説明してくれた。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年8月7日掲載)からの転載です。

 

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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