ディスカバー・ニッケイ

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パインデールとツール・レイク強制収容所の回想(英語)

(英語)僕は、パインデールとツール・レイク、それぞれの強制収容所に約3ヶ月居ました。18歳だったので、まだ物事をあまり深刻に考えない年齢でしたが、もし自分がドイツ人かイタリア人だったら自由にそこら中走り回れたのに、とは思いました。でも、アメリカ人の僕は、鉄格子の中に閉じ込められていたのです。明らかに理不尽でした。でもそれ以外は、僕は18歳の子がするようなことをしていました。バスケットボールをしたり、自分にできる精一杯のことをしていました。収容所を出たいと思っていて、結局1942年の秋、出ることができました。


カリフォルニア州 強制収容所 投獄 監禁 パインデール集合センター 一時拘置所 ツールレイク強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家