ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/917/

スパーク・マツナガ氏との会談(英語)

(英語) ちょうどその頃、私はスパーキー(スパーク・マツナガ氏)と話をする機会がありました。彼は日系二世の退役軍人の会で講演するため、私が住んでいた町に来たんです。マツナガ氏には、多忙なスケジュールの合間に、私との面会のため15分割いてもらうことになりました。でも面会は実際には2時間半にもなってしまいました。この問題は日系社会にとっては重要な問題と、彼は考えたんですね。彼は私たちの立場に強い共感を示してくれました。また、会談で話題となった全ての案件に関して行った我々の膨大なリサーチにも、とても感心してくれました。戦前そして戦時中の日系人の忠誠心だとか、最高裁におけるジョン・L・デウィット中将の証言とか、その類いのものに関する調査のことです。

この会談は、私自身とマツナガ氏にとって良い情報交換の場となりました。そして私は、彼が私との会談にこんなに長時間を割いてくれたことに、非常に感銘を受けました。他に予定されていたアポイントメントのいくつかを後回しにしてくれたんです。今後出てくるあろう補償獲得にかかわるいろいろな問題について、マツナガ氏がその中心的役割を果たすだろうと、私はその時感じましたね。そして歴史が証明しているように、その後マツナガ氏は甚大な影響力を発揮し、我々の要求に対しも、迅速に対応してくれました。


リドレス運動 スパーク・マツナガ 米国上院

日付: 1999年10月28日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・ミヤタケ氏は、1929年ワシントン州シアトルに生まれました。第二次世界大戦中まだ10代であったミヤタケ氏は、ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカに強制収容されました。強制収容所でミヤタケ氏は、米国政府によるマイノリティの扱いを批判する論文を書き、その主張の正当性を訴えましたが、教師は論文の受け取りを拒否し、合格点を与えなかった為、ミヤタケ氏は卒業することが出来ませんでした。

当初、彼の考えは急進的なものでしたが、ミヤタケ氏は、70年代前半から始まった補償請求運動の最初の発起人の1人になりました。他の数名の日系人と共に、米国政府に対し、強制収容された日系アメリカ人への補償を求めるため、日系アメリカ人市民同盟シアトル支部にその計画案を準備したのもミヤタケ氏でした。

しかし1978年11月25日にピュアラップ集合センター跡地で開催された最初の「追憶の日」のイベントまでは、ミヤタケ氏の努力は、日系コミュニティから反発を受けていました。ミヤタケ氏が参画し、開催にこげつけたこのイベントは、過去の不正を正すために組織されたその後の補償請求運動において、日系社会を大いに活気づけるものでした。

ミヤタケ氏は、2014年9月16日、85歳で亡くなりました。(2015年4月)

クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ウィリアム・ホウリ

信頼を得るためにしてきたこと(英語)

政治活動家(1927-2010)