ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

ゴードン・ヒラバヤシ

大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)

良き息子として(英語)

(英語) 母は、収容所での出来事をタイプライター用紙半分ほどにまとめ、週に一度収容所から送ってくれました。母がツールレイク強制収容所に到着し、ちょうど荷物を解いていた時、誰かがドアをノックしたそうです。母がドアを開けると、ほこりまみれの靴を履いた女性が2人立っていて、彼女たちは収容所の反対側からずっと歩いて来たとのことでした。2人は、収容所に送られた最初にグループの人たちだったそうです。彼女たちは、「刑務所に送られた男性の家族が、今日ここに到着すると聞いたのです。あなた方を出迎えたくて、そしてあなたの息子さんに感謝したくて、ここまで来ました。」と母に言ったそうです。

そう書かれた手紙を読み、私は、突然肩の荷が下りたような気持ちになりました。その肩の荷というのは、母から一緒に収容所へ行くよう懇願されてから、自分でも気付かないうちに負っていた自責の念でした。 その時母は「あなたの行動は立派だと思うし、あなたの考えには賛成よ。でももし今、家族がばらばらになれば、二度と会えないかもしれない。政府のやり方を見ていると、彼らは、私たちをこのままずっと離れ離れにする可能性だってあると思う。だから、お願いだから一緒に行きましょう。家族が一緒に居ることが重要なのよ。」と言ったのです。でも私は、「僕もそうしたいよ。でも、今は僕の面倒を見てくれている人たちが居て、彼らに全てを任せているから僕の心配はいらない。ただ、一緒には行けないんだ。もし今僕が行けば、自分に嘘をつくことになる。自分の立場を明らかにした今、もう後には引けない。」と母に言ったのです。

母の涙さえも、私の考えを変えることはできませんでした。その時私は、親の期待に応えられなかったことを申し訳なく思いました。でも、その後ろめたさを自分の中にずっと抱え続けていたことは、自覚していなかったのです。手紙の中の女性たちの訪問が、私の精神的な負担をずいぶん軽くしてくれたのです。


投獄 監禁 抵抗 第二次世界大戦

日付: 1999年12月5日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ、アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ゴードン・ヒラバヤシ氏は、1918年、ワシントン州シアトルに生まれました。ワシントン大学に在籍していたヒラバヤシ氏は、YMCAの活動に積極的に参加し、社会貢献活動と平和主義の信奉者でした。第二次世界大戦が勃発し、米国政府は日系人への立ち退き命令を下しましたが、ヒラバヤシ氏は個人的信条と大統領令の合憲性を問う立場から、そのような政府のやり方に対し、意義を申し立てました。

ヒラバヤシ氏は、夜間外出禁止令に違反した件で自らFBIに出頭し、90日間の刑に処せられました。ACLU(アメリカ自由人権協会: American Civil Liberties Union)の協力により、ヒラバヤシ氏の裁判「ヒラバヤシ対アメリカ合衆国」は、最高裁判所まで持ち込まれました。しかしながら、1943年、裁判所は満場一致でヒラバヤシ氏に有罪判決を言い渡しました。

有罪判決から40数年後、ピーター・アイロン氏が発見した資料には、政府が1942年に行った違法行為が明記されていました。そしてその違法行為は、当時のヒラバヤシ氏の裁判に直接影響を及ぼしていたのです。この新事実をもとに、1987年、ヒラバヤシ氏の有罪判決は覆され、長期に渡って阻まれていた正義が取り戻されました。

2012年1月2日、93歳で亡くなりました。(2012年1月4日)

Roger Shimomura
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ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

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藤間勘須磨

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政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

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若かりし頃の視点 (英語)

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