https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/851/
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
(スペイン語) ある日、父が友人を訪ねると言うので一緒について行きました。この友人は農場を持っていました。農場のオーナーは別の日本人のようでしたが。父の友人は世の中のことにとれも敏感で、すごく頭のいい人でした。たくさんの書物を持っていましたね。日本人移住地で起きたことや起ころうとすることなども把握していたようです。自分は子供ながら、庭で暴れ回り、玩具の車か木材のトラックのようなもので遊んでいました。その時、父と友人はラム酒とお茶を飲んでいたのですが、会話を小耳に挟み、驚いたんです。
友人は、父に言ったんです。「なあ、ツケオ、いやツケオではなく、シンキ。良く聞いてくれ。ここから出て行け、すぐに店を売って出て行け。2店舗とも。あの雑貨店もな(タンボという小商店)。君は『タンボ』と『飲食店』を持っているけど、それは金があるということだろ。ブラックリストに入っていなくとも、誰かが垂れ込めば、それで終わりだぞ。すぐに逮捕され、強制収容所に連れてかれるぞ」。 父は、「そんなことあるか!」、「まぁ、しょうがないか」と。
この友人はとにかく教養の高い人だったので、父はとても尊敬していたんです。父は彼の助言に従って、すべて売り払い、自分の従業員に払い下げました。先に店を、そしてすぐにレストランをたたみました。そして父は姿を隠したんです。我々は小さな家に、両親と私とで住んでいましたが、父は取引先の農牧業者の農場に身を潜めたんです。1940年より前のことですが、父はその農場のどこで寝泊まりしていたようです。ちゃんとした寝室もなく、多分ソファーかどこかで寝ていたのでしょう。あまりその家族に迷惑がかからないようにって。そういうふうに、いろいろな所を転々としていたようです。そうこうするうちに肺炎になり、また我々が居た町の家に戻ってきたのです。
日付: 2007年9月6日
場所: ペルー、リマ市
インタビュアー: ハルミ・ナコ
提供: ペルー日系人協会 (APJ)
ベナンシオ・シンキ・ウアマン氏はペルーのリマ市郊外スペ地区に1932年に生まれました。画家として最も功績を残している日系ペルー人のひとりです。父親のキツケ・シンキ氏は広島県出身で、母親のフィロメナ・ウアマンは地元ペルー人の方です。多くの日本人移住者が入植したリマ北部のスペという町にあるサンニコラス農場で生まれ育ちました。同氏はペルーの国立美術大学に進学し、1962年に首席で卒業しています。
シンキ氏の作品には東洋、西洋、そしてアンデスの伝統文化の要素が組み込まれています。未知で好奇心をそそる世界を特徴ある超現実主義(シュールレアリズム)のスタイルで表現し、洗練された技術とそれまでにない像を描いたことで、ラテンアメリカの造形芸術の巨匠達と肩を並べることになったのです。 世界的にも表彰され、ペルー、日本、イタリア、アメリカ、コロンビア、エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、パナマ、メキシコ等各地で個展や共同での展覧会に参加してきました。1999年には、ペルー日本人移民100周年記念事業の一環として名古屋の博物館でも展示を行いました。2006年11月リマで開催された第34回の「日本文化週間」では、多数の作品が展示されました。シンキ氏は、2016年に亡くなりました。 (2017年10月)
強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
テキサス州クリスタルシティーでの日系ペルー人と日系アメリカ人の関係について思うこと (英語)
強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)
日本人の母から見た日系人収容所
岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。
へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)
ペルー支部祭り太鼓のはじまり (スペイン語)
ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)
技術的な側面を超える『気持ち』 (スペイン語)
良き息子として(英語)
大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)
憲法の無視(英語)
苦しみを乗り越えて (英語)
補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)
記者の責任 (英語)
ジャーナリスト (1915 - 2007年)