ディスカバー・ニッケイ

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アメリカ人になろうとした結果(英語)

(英語)私が余りにもアメリカ人らしくしようとしたせいで、母と私の間には溝ができてしまいました。あの頃の私は母にちゃんと英語を習って欲しいと強く感じていたのですが、(今になって思うと)母は私たちの世話や仕事の手伝いで忙しくそんな余裕なんてなかったんです。それに母は母なりに自分が出来ることを精一杯やっていたんです。

ある日学校でPTAの会合があった時、私が「PTAの会合に両親が一番多く来たクラスは賞をもらえるの!」と言うと、クラスで皆が何の話をしているのか全く分からなくても、とりあえず姿だけは見せようと、PTAの会合にちゃんと来てくれていたのです。おしゃれをして帽子をかぶってね。それにひきかえ私は、母ともっと仲良くなるためにも、もう少し日本語をちゃんと勉強しようなんてことはしませんでしたからね。人生で一番後悔しているのはそのことですね。


教育 家族 アイデンティティ 言語

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

Monica Teisher
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モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Sabrina Shizue McKenna
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サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

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Reiko T. Sakata
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レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。

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