ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/514/

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

(英語)私たち一家は、南カリフォルニア大学のすぐ傍で、花屋を営んでいました。父がこの土地に初めて来た時、「アメリカに居る限りは、アメリカ人を相手に商売する。」と言っていました。それで、私たちは意図的にリトル東京から距離を置いて生活していました。私たちの客のほとんどはアメリカ人でした。真珠湾攻撃直後の月曜日、店を開けるかどうか迷いましたが、結局開けることにしました。ルーセラン(ルーテル)教会やメソジスト教会の人々、白人の客たちは、私たちにとても同情的でした。そして、自分たちにできることがあれば、力になるとさえ言ってくれました。その頃は、私たちはまだ問題なく暮らすことができていました。


差別 対人関係 小売店 第二次世界大戦

日付: 2000年11月15日

場所: 米国、ニューヨーク州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジョージ・カツミ・ユザワ氏は1915年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼と彼の家族は1942年にコロラド州のアマチ収容所へ収容されました。1943年にユザワ氏はニューヨーク市へ転住、彼の家族も1944年に合流しました。その後、アメリカ陸軍へ志願し、2年間陸軍情報部に従事しました。除隊後はニューヨーク市で輸出業を営んでいましたが、彼の父の園芸業を助けるため自らのビジネスを廃業しました

1970-80年代にかけて、ユザワ氏は米国日系人市民協会ニューヨーク支部にて公民権運動に積極的に参加しました。ビジネスや公共交通機関の前に日本人を侮辱するサインを掲げた人々に対して訴訟を起こし、さらには高田賢三(Kenzo)論争やILGWU(国際婦人服労働組合)による地下鉄の反日ポスターキャンペーンでは先鋒をきって抗議しました。これらのキャンペーンの結果、二世活動家たちと共にAsian Americans for Fair Media, Inc.を立ち上げました。また、彼は賠償金運動にも積極的に参加し、1981年にニューヨーク市で行われたCWRIC(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の公聴会を実現させました。

ユザワ氏はブルックリン植物園での第1回桜祭りを開催し、さらには老人に対し住居や介護をバイリンガルで提供するために、非営利団体JAHFA(日系高齢者援護会)を設立しました。20世紀の第4半期はコミュニティの老人のニーズに応えるため尽力を注いでいます。

2011年10月、ユザワ氏はなくなりました。(2011年10月)

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)