ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/506/

ミッション市の日本人コミュニティ(英語)

(英語)(ミッション市の日本人コミュニティは)とてもよく団結していました。もちろん仏教派、キリスト教派、それから農家協会の会員にはならず、どちらかと言えば無所属でいる者などいろいろいましたが、全体的に皆仲良くやっていたようです。でも大半の人達は日系農家協会、または彼等が呼ぶところの「農会」に属していました。農会の会合があると、集まっていろんな案件を話し合ったり決定していました。また、どこかの家族に不幸があると、見舞金や弔慰金が支払われるようになっていたそうです。

I*:なるほど、当時は農会があって、それぞれの県人会もあったのですよね。地域との付き合いはどの程度頻繁に行われていたのですか?

ほとんどの付き合いは県人同士によるものでした。同じ県出身者同士には、なぜか親近感が沸くんですよね。ミッションでは私達は唯一の和歌山県人でしたから、取り残されている感じはありましたけどね。私自身の著書にも書いた様に、当時は福岡県、滋賀県、鳥取県、広島県、神奈川県などの県人会がありました。

*“I ” はインタビュワー(ノーム・イブキ)


組合 カナダ コミュニティ 農民組合 非営利団体

日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

Mia Yamamoto
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ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

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ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

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