https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/501/
ジャーナリスト(1937生)
(スペイン語) そうですね。戦争中、スクリーンで観るアメリカ映画は、必ず日本が敵のものばかりでした。それも残虐な敵です。シリーズものもそうで、小さなころから見ていたバットマンは日本人と戦っていました。日本人はいつも悪者でした。私たちは無邪気なもので、自分たちの親の親、つまり日本人が面白半分に人殺しをする残虐な敵として登場する、ということは気づかずに映画を観に行っていました。あるとき、まさにマッカーサーが「私たちは戻ってくる。」のセリフを残した映画を観に行ったことがありました。映画は当然のように反日的なもので、上映後、まだ小さかった私といとこが外に出ると、皆が、私たちをまるで、そう、ペストとかハンセン病とか、そういうのを病んでいるかのように見ていたんです。それにしてもまったく気分の悪いことですよね。
I*: 今の子供たちもそういう経験があると思いますか?
いや。もうないでしょう。恐らく、唯一嫌なことがあるとしたら、目の細い人は皆「中国人」と言われることでしょうか。(笑)それくらいですかね。中国人に敵対心とかは全くないんですけどね。皆仲良くやっていますし。ただそんな風にひとくくりにされるんですよね。
*Iは、インタビュワー(アン・カネコ)。
日付: 2005年10月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
アルフレド・カトウ氏は1937年11月12日にペルーのカニェテに生まれました。第二次大戦中、カトウ一家はカニェテに住んでいましたが、家族とともにルナグアラと呼ばれる山脈地帯へ一時避難しました。1947年にリマへ戻りましたが、当時はまだ日系人が公の場で集まることを許されていなかったため、彼は日本語学校へひそかに通いました。
彼はカトリカ大学に進学し、現在44年間のジャーナリストの経験を持っています。現在、日系ペルー人新聞『ペルー新報』の編集局長であり、サンマルティン・デ・ポレス大学の教授でもあります。(2005年10月7日)
市民権を取り戻す(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
忠誠心の質問への返答(英語)
収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)
真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
第2次大戦後の東京(英語)
第2次大戦後の人々の変化(英語)
9/11後のアメリカの雰囲気について(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
渡米後の祖母の差別体験(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
陸軍での人種差別経験(英語)
カンザスの農夫との会話(英語)
人種的ステレオタイプを描いた作品の与える影響(英語)
公共プールでの差別経験(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
徴兵拒否の決意(英語)
先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)
日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)
スロカン収容所後の生活(英語)
第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)