ディスカバー・ニッケイ

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渡米後の祖母の差別体験(英語)

(英語) 祖父のヨシトミは、祖母よりも先に渡米していました。祖父が移住したのは、祖母よりも6年早い1906年でした。大学でビジネスを専攻した祖父は、卒業と同時にアメリカへ渡りました。他の移民たちが期待していたように、私の祖父もアメリカで財を築き、若いうちに引退して日本で自適に暮らすことを夢見ていたのです。そうして祖父は、サンフランシスコで働くことを決め、サンフランシスコ行きの船に乗ったのです。しかしながら、それ(サンフランシスコへ到着した日)はちょうど1906年のサンフランシスコ大地震があった日で、乗船者はサンフランシスコ以外の港に上陸しなければなりませんでした。当時、サンフランシスコから最も近い主要な港はシアトルだったので、船はさらに北上し、数日後シアトルに到着しました。

アメリカでの生活は想像以上に過酷で、祖父はコックか清掃夫の仕事にしか就けず、職を求めて太平洋岸北西部を旅して回ったそうです。たとえ短期労働の仕事でも、カナダまで行って働き、その土地で生活したこともありました。祖父は、エルクス・クラブというところでコックだった時のことをよく話してくれたのですが、夜遅く仕事を終えてレストランを出ると、白人の男何人かが祖父を待ち伏せし、石をぶつけてきたそうです。そんなことが度々起こり祖父は怪我を重ねたので、レストラン側は彼が路地裏から外に出られるよう特別に許可したそうです。そして石を投げていた人たちは、祖父が仕事を辞めたと思い込み、事態は収まったそうです。


差別 移住 (immigration) 対人関係 移住 (migration) 人種差別

日付: 2003年3月18・20日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、マユミ・ツタカワ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ロジャー・シモムラ氏の絵画・版画・舞台作品はアジア系アメリカ人の社会政治的な問題を題材にしています。これらの作品の多くは移民として渡米した故祖母が56年間にわたって綴った日記からアイデアを得ています。自作の絵画・版画の個展を100展以上も開催しており、ニューヨークのフランクリン・ファーネス、ミネアポリスのウォーカー・アートセンター、ワシントンDCのスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館などを拠点とし実験的な舞台作品を紹介してきました。また、教育者としても広く認められており、カンザス大学で特待教授(Distinguished Professor)になりました。さらに、アメリカ美術史学会は、4年間に渡る全米12の博物館で開催された巡回展『アメリカン・ダイアリー』の功績を称え、2001年に最優秀芸術作品賞を授けました。

シモムラ氏個人の書類などはスミソニアン協会アメリカン美術古文書館に保管されています。また、ニューヨーク.、シカゴ、カンザス市、マイアミ、シアトルのギャラリーで彼の作品を見ることができます。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

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