ディスカバー・ニッケイ

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フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

(英語) 僕が9年生だった頃、ラハイナルナに引っ越したんです。僕が住んでいたところはラハイナから6マイルもあって、交通機関はありませんでした。学校に行く交通機関がないので、コーチに寄宿生としてラハイナルナの寮に住めるように頼んだんです。そしたら空きがあると言われたのでラハイナルナに高校1年から2年までの2年間住みました。

寮にいる間、僕の仕事は毎朝牛の餌になる100ポンドの草を集めることでした。学校には農場があって、そこでは牛や豚、ニワトリやアヒルを育てていて、野菜もたくさん栽培していたんです。学校には約125人くらいの寄宿生達がいたので、彼らを食べさせるために必要だったんです。それに、よく街中に出て行っては牛乳とか大量の卵を売っていましたね。1、2年生の時の僕の仕事は、朝5時に起きて、100ポンドの草を集めることだったから、時々それを背負って山を2つも登ることだってありましたよ。そのおかげで、僕の足はとても鍛えられて、僕が野球する上でもずいぶん役立ちましたね。


農業 教育

日付: 2003年12月16日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アート・ハンセン、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)