ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/308/

インタビュー

竹下 幸男

「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)

JACLとの関わり(英語)

(英語) そうですね。ここ(日本)の生活ももうすぐ60年になりますね。長いことJACL(米国日系人市民協会-日本支部)とは何の関わりもなかったんです。さっきも言いましたけど、たぶん60歳を過ぎてからじゃないかな。昔は、自分が日系アメリカ人だとか、日系アメリカ人との付き合いがあるなんて言う場はなかったんです。日本のどこにもそんな集まりはなかったですからね。 それから、(JACLには)私と同世代の人もいないし、(戦中アメリカで)収容所に入ってた人もいないんです。(周りには)誰も収容所を経験した人がいないんです。だからある意味、私は特別なんでしょうね。他の人たちは、収容所がどんなところか知らないんだから。まあ、私はまだ子供でしたけど、それでも3年半も収容所にいましたから。鉄条網の中にね。開戦前に日本へ帰ってきた人たちは、収容所が何なのか、どういうふうに収容所へ移され、隔離され・・・なんて言うのか分かりませんけど・・・知らないんですよ。だからJACLの若者は親から聞いたっていうけど、実際に収容所がどんなだか本当は知らないんですよ。


Finding Home(映画) アイデンティティ 投獄 監禁 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2003年9月11日

場所: 日本、東京都

インタビュアー: アート・ノムラ

提供: アート・ノムラ、『ファインディング・ホーム』

語り手のプロフィール

67歳の竹下幸雄氏は、1935年にワシントン州のタコマで洗濯屋を営む山口県出身の一世の父親と帰米の母親のもとに生まれました。太平洋戦争勃発後、竹下一家はフレズノ付近にあるパインデール集合センターに一時的に収容された後、ツールレイク強制収容所に送られました。ツールレイクが転住センター(Relocation Center)から隔離センター(Segregation Center)へ移行した後も、彼の両親がアメリカ政府に忠誠を誓わなかったため、終戦までツールレイクに収容されました。

戦後、ツールレイクを出た竹下一家は日本へ移住しました。彼は日本で公立学校に通い、1958年には経済学士号を手に大学を卒業し、広島県で就職しました。その後、日本ではかなり珍しいことですが、1998年に退職するまでに5回転職しました。職種は主に輸出入業であり、英語でビジネスの取引を行うことが多かったそうです。

現在、彼は日本人の妻と日本国籍を持つ2人の子どもがいます。彼は全米日系人市民協会(Japanese American Citizen League)の日本支部の会員であり、JACLの活動を通して日系アメリカ人に限らず様々な背景を持つ人々に出会う機会があるそうです。また、彼はアメリカ政府から戦時中の日系人に対する強制収容に対しての補償金を受け取りました。それについて、アメリカ政府が未だに自分のことを「アメリカ人」とみなしてくれてるんだと感じたそうですが、彼は「アメリカで生まれた日本人」であると自分自身を表現しています。(2003年9月11日)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家