ディスカバー・ニッケイ

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兵士たちを手助け (英語)

(英語) 外の芝生には、兵士たちの毛布さえ十分にありませんでした。負傷兵は皆芝生に横たわっていました。(今でも)はっきり覚えているのが、若い兵士―ブロンド(髪)の兵士―がいて、18歳か19歳位だったと思います・・・私はその兵士の看病していました。すると彼は私に、母に手紙を書いて欲しいと頼むんです。まだ8年生だった私には難しいことでしたが、彼が言うことを手紙として書きとめ、その手紙の送り先の住所を預かりました。翌朝彼のところに戻ってみるともう死んでいました。きっとその夜に亡くなったんですね。

戦中に体験した様々なことを考えると、なんだかおかしなことばかりです。軍のトラックが家の前に停まり、私たちのプランテーション・キャンプはトラックなどで一杯になりました。怖くて外にも出られませんでしたよ。

さらにおかしなことは、その2週間後、ワシントンDCの陸軍部から手紙が届いたんです。バックグランドをチェックして、私が外国人だとわかったんですね。手紙には「ご支援に感謝します」や「良くやってくれて・・・」と(出だしに)あり、―今でもその手紙を持っています―続いて私が外国人というこで「申し訳ありませんが・・・」と。もう手助けはいらないというんですよ。たしか私の友達も含め皆支援から外されたんです。なんだか悲しかったですね。戦時中に育ったが故に、苦労させられました。(敵国の)外国人とみなされたため、午後6時以降は外出ができませんでしたし、駐屯地の近くで働くことも出来ませんでした。結構辛い思いをしましたよ。


差別 ハワイ 対人関係 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士