ディスカバー・ニッケイ

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民族研究の内情 (英語)

(英語) 私は最初アジア系アメリカ人研究科の学科長になり、その後民俗研究学部の学部長になりました。なぜ私が(学科長に)選ばれたかというと、事の発端は、最初の年に(当時学部長だった)ハヤカワ氏が政治学部の比較的リベラルな人をアドミニストレーター(管理者)に選んだからです。

しかしリベラルであるとはいえハヤカワ氏が選んだということは、民族研究学部の教員達から総すかんに合いました。 結果的にハヤカワ氏が黒人研究科の人たち全員を解雇する事態となりました。何故かというと、その科には黒人ジャーナリズムというコースがあり、彼らが出している新聞『ブラック・ファイヤー』に自分たちからみたハヤカワ氏のことが書かれていて、内容が余りいいことではなかったからなんです。そこでハヤカワ氏は黒人研究科の人たち全員をクビにしました。しかしハヤカワ氏は苦境に立たされました。そこで他の学部長全員が集まり会議を開き、その席で、私のことを知っていた社会学科の学部長が私を(民俗学研究)部の学部長に推薦したのです。その後ハヤカワ氏が私に(学部長になるよう)申し入れしてきました。私は「そうですか・・・これからサバティカルリーブ(研究休暇)で日本に行くので・・・」と言うと、ハヤカワ氏は「どちらにしてもお引受いただけますね?」と言うので、私は「考えておきます」と返事をしました。

私はハヤカワ氏が日本に行っている間に、副総長にその仕事をお引き受けると返事をしました。しかしまず最初に黒人研究科、ララサ(メキシコ系米国人)、アメリカ先住民の対応をしなくてはなりませんでした。自分自身これから何をすべきかはっきりとさせておきたかったんです。私の理解では、(今回私が学部長になったということは)民族研究学部の全研究科それぞれが、独立し発展していくことを守ることが私の使命であるということでした。しかしそれにともない、私は大学のアドミニストレーション(管理部)と掛け合わなくてはいけないので、私の立場も守ってほしいと彼ら(研究科のひとたち)に話をしました。そして同じような約束を副総長とも交わしました。副総長は、ゴードン(兄)がワシントン大学の大学院生だったとき同大学の学部生だったため、個人的に知り合いでした。私がサンフランシスコ州立大学を訪問した時も、知り合いのよしみでよく面倒をみてくれました。私はその副総長に「いいですか、私が民族研究学部に何かが欲しいといったときは、何も言わずにそれを与えてください。私はあの学部の統制をとらなくてはならないのですから」といい、約束を取り付けました。民族研究学部に必要なことをするため、必要なものを得るために、副総長との個人的な関係を利用したのです。


アジア系アメリカ人研究 教育 民族研究

日付: 2004年1月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アート・ハンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジェームス・ヒラバヤシ氏は、20世紀初期に米国北西部太平洋岸に移住した勤勉な農民の息子として生まれました。1942年、当時高校3年生だったヒラバヤシ氏は、パインデール集合センターに一時的に拘留されましたが、その後北カリフォルニアのツールレイクの収容所へ移送、抑留されました。

第二次世界大戦後、シアトルのワシントン大学で人類学の文学士号(BA)と文学修士号(MA)取得し、その後ハーバード大学で博士号(Ph.D)を取得しました。現在はサンフランシスコ州立大学の名誉教授であり、合衆国で初めて設立された民族研究学部の学部長を務めました。そのほかにも、東京大学やアルバータ大学(カナダ)、アーマド・ベロ大学(ナイジェリアのザリア)での研究・教歴を持っています。

ヒラバヤシ氏は、2012年5月1日、85歳で亡くなりました。(2014年6月)

Toshihiko Seki
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関利彦

金の卵を育てる

寿司職人(1962年生)

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Isao Taoka
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田岡 功

移住地教育とパラグアイへの思い

パラグアイ駐日大使(1943年生)

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Edward Toru Horikiri
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堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

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Susumu “Sus” Ito
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ススム・“スス” ・イトウ

復員兵援護法を利用して博士号を取得(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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Tom Yuki
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トム・ユキ

朝鮮戦争での戦闘参加を避けるため、ヨーロッパでの任務を希望(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

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Fumiko Hachiya Wasserman
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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族の日系ルーツと価値観 (英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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Howard Kakita
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ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

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George Ariyoshi
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ジョージ・アリヨシ

舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

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Wally Kaname Yonamine
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与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

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Richard Kosaki
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リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

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Richard Kosaki
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リチャード・コサキ

コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

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Mitsuo Ito
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ミツオ・イトウ

日本語学校 (英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

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Shizuko Kadoguchi
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シズコ・カドグチ

日本の男女別教育(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

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Sam Naito
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サム・ナイトウ

ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

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