https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1799/
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)
それから、1941年ですか、昭和16年の7月末ですかね、今度はもう外国語による新聞の発行が禁止されたんですね。そうすると日本人の圧倒的大多数はポルトガル語ができないから、結局その日本語の新聞によるそのニュースがわかんなくなってしまって。で、そのうち戦争が始まり、日本からのニュースが短波放送によるものしか聞けなくなってですね、それで戦争が終わった時に、戦争が終わった時に日本が勝ったとか負けたとかそういう議論になる、なるわけですね。それで、勝ち組とか負け組とか言う、今で言えば考えられないような、そんなことが起こってですね。
その日本が負けたと認識していたのは、やっぱりそのポルトガル語が分かり、あるいは英語がわかるような、いわゆる日系社会のインテリ層の人達だったんですが、しかしその臣道連盟とかそういうのが、結局その日本が負けたと言ってる連中は国賊だ見たいなことになり、それで、そんな今で考えればちょっとなんて言いますかね、本当に常識外れのようなことが起こって。たしか23人位のいわゆる認識派ですね、敗戦派と言うのが殺害され、150~160人が怪我をし、それでまあブラジル政府もほっとけなくなってですね、それでまあ、あのそういった人達を逮捕して、サンパウロ州の北部海岸にあるアンシェッタ島という島の刑務所に送り込んだと。
100周年、2008年の時に、「私は誰誰をえ~殺したんだ」と言うような人なんか出てきたりしてですね。その彼が腹に巻いていたというその寄せ書きがまぁ今移民資料館に飾ってありますけどね。
日付: 2019年9月19日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)
フォート・マクラレンの兵士たち(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
収容所で姉を失くす(英語)
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
ターミナルアイランドの人たちと収容所へ(英語)
政治活動家(1927-2010)
収容所の屋外便所とシャワー(英語)
15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)
戦争開始前、日本から米国へ (英語)
花屋 (1916-2016年)
日系アメリカ人の避難 (英語)
収容所の病院で働く (英語)
戦後の差別の経験 (英語)
強制収容、国外追放、弁護士 (英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)
トゥーリーレイクへ(英語)
初めての映画(英語)
カモメ取り(英語)
楽天的だった父(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)
タンフォラン集合センター(英語)